俎橋、飯田町

マーカーは九段北一丁目交差点です。

俎橋
[難読として知られる。橋銘は「爼」となっているが、一般的には「俎」と表記されることが多い。他に「俎板」や「魚板」などとも書かれた。稀に「姐」と誤記される。名前の由来は、橋が2枚の俎(まないた)を渡したような板橋であったことによるとする説と、近くに存在した台所町との関連で名付けられたとする説がある。俎橋は、江戸時代初期の架橋と思われるが、詳しい年代は不明である。江戸時代には東側には武家地が広がり、西側は飯田町と称した。東側には現在のように橋を降りて直進する道路はなかったため、橋は現在ほど往来が多くはなく、橋自体も小規模であった。万治年間より1903年(明治36年)までの期間、日本橋川神田川からの分流点より堀留橋までの区間が埋め立てられており、堀留橋付近がその名の通り堀留で、俎橋が日本橋川の最も上流に架かる橋であった。俎橋と堀留の間の西岸には1664年(寛文4年)より俎河岸が存在し、物資の荷揚げが行われた。  (wikipdia-俎橋より)]

飯田町
[かつてこのあたりは千代田村と呼ばれるのどかな農村でした。ここに飯田(いいだ)という地名が生まれたのは、徳川家康(とくがわいえやす)が江戸にやってきてからのことです。天正(てんしょう)十八年(1590)、江戸に入府した家康は、千代田村とその周辺を視察します。このとき案内役を買って出たのが、村の住人飯田喜兵衛(きへえ)でした。「所(ところ)の巨細(こさい)とも申上(もうしあげ)(土地のことについて、細かく詳しく申し上げた」(『新撰東京名所図会(しんせんとうきょうめいしょずえ)』より)という喜兵衛の案内に感心した家康は、彼を名主(なぬし)に任命し、さらに地名まで「飯田町」とするように命じたのです。以来、江戸の町の開発が進み、この界隈(かいわい)に武家屋敷がひしめくようになっても、飯田町という名前は残りました。ただし江戸時代の武家地は町名をもたなかったため、飯田町は通称として使われていました。  (「千代田区 町名由来板ガイド:飯田町(いいだまち)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央右方向に町屋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」(コマ番号3/4・絵図中央に町屋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 飯田町堀留より数寄屋橋御門外迄御堀浚道造出来形絵図

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「飯田町中坂九段坂」(1-52)、「田安の台解説-1・左ページ左」(1-49)、「田安の台解説-2・右ページ1行目まで」(1-51)
飯田町中坂九段坂(拡大図)

[図会中央下に俎橋が描かれ、左端の道が九段坂、その右が中坂です。]

狂歌江都名所図会 – 九段坂 中坂 俎板橋(拡大図)

カメラ位置は俎橋で、カメラ西南西方向が九段坂方向になり、九段坂右側が飯田町になります。

カメラ位置は九段北一丁目交差点で、カメラ西南西方向が中坂です。この交差点四方が飯田町になります。

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