備後福山藩阿部家上屋敷跡(ワテラス)

マーカーは備後福山藩阿部家上屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP746・コマ番号417/553の鯖江藩上屋敷の変遷について下記の通り記載されています。
『福山藩 伯爵阿部家 旧封拾壱万石
一、上屋敷 大手門
  拝領年月日不詳 上地年月日不詳
一、上屋敷 西丸下
  拝領年月日不詳 上地万治二(1659)年七月廿五日
一、上屋敷 同所
  拝領 万治二年七月廿五日 上地万治三(1660)年十一月十八日
一、上屋敷 同所
  拝領万治三年十一月十八日 上地天和二(1682)年四月三日
一、上屋敷 山下門内
  拝領天和二年四月三日 上地明和元(1764)年五月朔日
一、上屋敷 西丸下
  拝領明和元年五月朔日 上地明和六(1769)年八月廿一日
一、上屋敷 小川町
  拝領明和六年八月廿一日 上地天明七(1787)年三月八日
一、上屋敷 西丸下
  拝領天明七年三月八日 上地天明八(1788)年四月六日
一、上屋敷 小川町
  拝領天明八年四月六日 上地文化十四(1817)年八月廿六日
一、上屋敷 西丸下
  拝領文化十四年八月廿六日 上地文政六(1823)年十一月十八日
一、上屋敷 小川町
  拝領文政六年十一月十八日 上地天保十四(1843)年閏九月十五日
一、上屋敷 辰ノ口南角
  拝領天保十四年閏九月十五日 上地安政四(1857)年八月十七日
一、上屋敷 昌平橋内
  拝領安政四年八月十七日』
大手門に最初の上屋敷を拝領以来13回の屋敷替を行っています。この上屋敷(ワテラス)の場所は最後の昌平橋内になります。] 

備後福山藩阿部家
[福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。藩庁は福山城福山市)。石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。
松平忠雅の転封から間もなく、宝永7年(1710年)下野国宇都宮藩(10万石)から阿部正邦が10万石で入封する。以後、阿部家は廃藩置県まで10代161年間在封することになった。この間老中を4人、大坂城代を1人輩出する。特に7代藩主・阿部正弘は25歳で老中首座に就任し、日米和親条約を締結したなど著名である。しかし阿部家は代々幕閣の中枢を目指したため、歴代藩主のほとんどは江戸定府で、領内に在住することは稀であった。また、このために阿部家は他の大名に比べ多くの経費を必要とし、また先の検地により厳しい査定を受けての10万石であったため歴代を通じて財政状況は極めて悪く、たびたび一揆を招くことにもなった。中でも領内全域を巻き込んだ天明の一揆は『安部野童子問』などの書物に描かれて全国的に名を知られた(水野時代に一揆の発生した記録は一度もない)。また、重税や飢饉により没落する農民も多く、田畑所有の寡占化が進み、幕末までに多くの「豪農」が出現した。
藩政において、阿部家は基本的に領国の経営に関心が薄いこともあり、財政の緊縮に重きが置かれ、水野家のような大規模な開発は行われなくなる(幕末には福山沖で広大な新田の開発が始まるが、完成前に明治を迎えた)。嘉永5年(1852年)には阿部正弘が江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増され、石高は計11万石となった。このとき加えられた領地は、水野家廃絶時に幕府領とされた安那郡神石郡後月郡のそれぞれ一部である。阿部家は教育の面においては、天明6年(1786年)に4代・阿部正倫藩校「弘道館」を開き、阿部正弘は嘉永6年(1853年)に福山と江戸に新たな藩校「誠之館」を開くなど、目覚しいものがあった。このため幕末までに福山藩からは、菅茶山頼山陽を始め多くの人物を輩出することになった。
幕末
元治元年(1864年)、福山藩は幕府に長州征討への参加を命じられ、藩主阿部正方は藩兵約6000人を率いて広島に進軍するが、幕府と長州藩との間に和睦が成立して引き返した。また慶応元年(1866年)末には、第二次長州征伐に参加のため山陰を目指して出陣した(途中正方は体調を崩し、指揮を家老内藤角右衛門に委ねる)。ちなみにこの出兵の準備中、福山城内に保管していた火薬が大爆発して櫓3棟が失われている。そして翌年6月17日、福山藩は石見国益田において大村益次郎率いる長州軍と戦闘を繰り広げ、敗走する。これは福山藩にとって島原の乱以来、実に230年ぶりの戦闘であった。その後、幕府側の諸藩は敗走を重ね、逐次撤退を開始したため、福山藩も7月23日に福山へと帰還した。これらの戦によって、そうでなくとも厳しい藩財政は破綻同然まで追い込まれるが、一方で財政建て直しの切り札として慶応元年(1865年)から福山沖で藩史上最大の大新涯(約320ha)造成が開始される。この事業は前述の第二次長州征伐参加の準備で中断されるが慶応3年(1867年)に完工する。しかし、地質の改良が進み、実際に収穫が得られるのは明治になってからであった。藩財政は後述する明治維新の緒戦などでさらに悪化し、廃藩置県までに破綻状態に陥ることになる。
大政奉還の後、慶応4年1月9日(新暦1868年2月2日)、福山城が杉孫七郎率いる長州軍によって築城以来初めての攻撃を受けることになった。まず今津(松永町)に進駐した長州軍は部隊を三手に分け北、西、南からそれぞれに福山を目指した。これに対し福山藩は恭順の意を示すが、城下に迫った長州軍は北本庄の円照寺を占拠し、大砲による砲撃を手始めに本格的な攻城を開始しようとする。しかし、福山藩の実質的な首脳であった儒学者の関藤藤陰や家老三浦義建の奔走により(藩主阿部正方が直前に病死したため藩主不在であった)、長州軍は福山藩の恭順を認め備後から撤兵した。こうして福山は戦火から免れることになった。
明治元年(1868年)になると、新政府から伊予国松山、播磨国西宮、大阪府天保山と矢継早に出兵を命じられる。こうした中、正方の死去を隠蔽し、安芸国広島藩から藩主浅野長勲の弟が正方の養子・阿部正桓として10代藩主に迎えられた。正桓は藩主就任直後に蝦夷箱館への出兵を命じられ、藩兵約500人が新政府軍に加わり箱館戦争で戦った。しかし、福山藩兵は七重村の戦いで榎本軍に撃退され、青森まで敗走する。その後再び戦列に加わり、箱館総攻撃では千代ヶ岡砲台を攻略した。この戦による福山藩兵の損害は死者25人、負傷者28人であった。明治2年(1869年)、正桓は版籍奉還により福山知藩事に就任する。  (wikipedia・備後福山藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 元治再刻飯田町駿河台小川町絵図(慶応元[1865]再刻)」[絵図中央左端下に阿部主計頭(阿部正方)上屋敷が描かれています。]

備後福山藩阿部家上屋敷地には嘉永三・1850年版元尾張屋清七では小浜藩酒井家上屋敷が描かれ、阿部正弘が老中(任期:1843年-1857年)辞任後屋敷替えがあったと思われます。
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」(嘉永三・1850年版元尾張屋清七には酒井若狭守上屋敷が描かれています。)
国際日本文化研究センター – 飯田町駿河臺小川町繪圖」([安政七年(1860)改正]では、阿部伊予守上屋敷になっている。) 

カメラ西南西方向はワテラスで、この敷地を含む観音坂までが備後福山藩阿部家上屋敷跡になります。