大久保彦左衛門屋敷跡

マーカーは大久保彦左衛門屋敷跡碑です。

大久保彦左衛門(大久保忠教)屋敷跡
[神田川と並行するJR御茶ノ水駅を南北にはさんで大病院が多い。古くからの病院では、神田川北側の文京区側に、天保9年(1838)創立の順天堂大学病院があり、南側の千代田区神田駿河台には、今月6日(2012年)に亡くなられた三笠宮寛仁さまが入院しておられた明治15年(1882)設立の杏雲堂病院や明治27年(1894)設立の東京産婦人科病院(現・浜田病院)や日本大学歯学部付属歯科病院の前身で大正5年(1916)創立の東洋歯科医学校があった。
この一帯は、元和2年(1616)、徳川家康駿府城で没後、江戸に帰る駿府詰の家康直属の旗本たちに屋敷地を割り当てたことから駿河台と呼ばれたところで、現在ある大規模のビルは、すべて江戸の武家屋敷跡地に建っている。
杏雲堂病院入口の植え込みには、大久保彦左衛門の屋敷跡を知らせる石碑があり、その側のYMCA会館や日大病院のある一画は、小栗忠順の屋敷跡だった。  (「江戸・東京の歴史路を歩く 2 -1 神田駿河台- : 断想」より)]

カメラ東南東方向・植込みの中に大久保彦左衛門屋敷跡碑があります。

大久保忠教
[大久保 忠教(おおくぼ ただたか)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本徳川家臣・大久保忠員の八男。兄に大久保忠世大久保忠佐大久保忠為ら。幼名は平助。一時忠雄とも名乗った。通称の彦左衛門で有名。子に大久保忠名、大久保包教、大久保政雄らがいる。妻は馬場信成の娘。『三河物語』の著者としても知られる。
三河国上和田(愛知県岡崎市)に生まれ、17歳のときに兄・忠世と供に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後、忠世や忠佐らの旗下で各地を転戦し、高天神城攻めで岡部元信を討ち、天正13年(1585年)の第一次上田城の戦いでは全軍が真田昌幸の采配に翻弄される中、兄らと奮戦した。
天正18年(1590年)、小田原征伐の後、主君・徳川家康江戸に移封され、兄・忠世およびその子で甥大久保忠隣相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでも家康本陣で槍奉行を務め活躍した。
このころ、次兄の忠佐は駿河国沼津城主となって2万石を領していたが忠佐の嫡子・大久保忠兼が早世してしまったため、弟の忠教を養子として迎えて後を継がせようとしていた。しかし忠教はこの申し出を「自分の勲功ではない」と固辞したため、忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。
続けて忠隣が大久保長安事件(諸説あり)に連座して失脚、改易となると、それに連座して忠教も一時改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田に1000石を拝領し復帰した。慶長19年(1614年)、大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も2代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、3代将軍・徳川家光の代になって旗奉行となった。このころ更に1000石を加増されている。
寛永12年(1635年)ごろから常陸国鹿嶋に300石ほどの地を移し、余生を送りながら『三河物語』の執筆に没頭したようである。寛永16年(1639年)に80歳で没した。死の間際に家光から5000石の加増を打診されたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。
法名:了真院殿日清。墓所:愛知県岡崎市竜泉寺町の海雲山弘誓院長福寺。京都市上京区上之辺町の光了山本禅寺および東京都港区白金の智光山立行寺(忠教によって建立されたため、通称を「大久保寺」という)。  (wikipedia・大久保忠教より)]

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