大多喜藩松平(大河内)家上屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP446・コマ番号267/553から大多喜藩屋敷の変遷について記載されています。P450・コマ番号269/553「上屋敷 駿河臺」がこの地になります。

大多喜藩松平(大河内)家
[大多喜藩(おおたきはん)は、上総国(現在の千葉県夷隅郡に存在した藩。藩庁を大多喜城(跡地:大多喜町大多喜四八一)に置いた。
元禄16年(1703年)相模国玉縄藩から大河内長沢松平家松平正久が2万石で入ったことにより、ようやく藩主家が安定した。最後の藩主松平正質は、幕末期に老中格・若年寄奏者番などを歴任した。明治元年(1868年)の戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでも幕府軍の指揮を任されたが、大敗を喫して江戸へ逃れた。その後、正質は戦犯として新政府から官位と所領の没収を宣告され、佐倉藩に幽閉された。大多喜城と領地は当初は佐倉藩、後に三河吉田藩の管理下に置かれていたが、請西藩や旧幕府部隊(撤兵隊・遊撃隊)などの誘いに応じなかったことが評価されて、同年8月に宥免されて正質の所領・官位は共に旧に復した。翌年の版籍奉還で正質は知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で大多喜藩は廃藩となって大多喜県となった。  (wikipedia・大多喜藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五(1808)年調」[コマ番号3/4・絵図中央に松平弾正忠(松平正路)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年」[絵図中央左に松平備中守(松平正和)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は本郷通り駿河台交差点で、交差点東側を含む、カメラ西方向駿河台道灌道の両サイド、お茶の水仲通りまでが大多喜藩松平(大河内)家上屋敷跡になります。