小石川御門内勘定奉行役宅跡(勘定奉行松平近直役宅)

マーカーはカメラ位置です。

勘定奉行
[勘定奉行(かんじょうぶぎょう)は、江戸幕府の職名の一つ。勘定方の最高責任者で財政や幕府直轄領の支配などを司る。寺社奉行町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。元禄年間までは勘定頭(かんじょうがしら)とも称した。評定所においては、関八州江戸府外の訴訟について担当した。定員は約4人で役高は3000石。老中の下にあり、郡代代官蔵奉行などを支配した。1698年以降は、うち1人が大目付とともに道中奉行を兼務した。享保6年(1721年)には財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれた。「勝手方」(農政財政関係)と「公事方」(訴訟関係)の職務は全く別のものであり、事実上名称のみが共通している状態であった。
勘定奉行は勘定奉行を長官として、勘定吟味役・勘定組頭・勘定支配勘定などで構成されていた。
勝手方役所は、城内の「御殿勘定所」と大手門内の「下勘定所」のふたつがあった。
御殿勘定所には「御殿詰」と「勝手方」とに分かれており、下勘定所には天保5年(1834年)時点では「取箇(とりか)方」「道中方」「伺方」「帳面方」があり、その下にはさらに幾つもの業務が細かく分課されていた。
●御殿詰 各役所からの諸経費などの書類の決裁、米相場や分限帳の検査を担当
●勝手方 金座・銀座・朱座の監督や御家人の給米を担当
●取箇方 天領における徴税など経済面の事務を担当
●道中方 五街道の管理業務を担当
●伺方 運上金・冥加金、山林管理などの雑務の監督・経理処理を担当
●帳面方 各役所や郡代・代官から提出される帳簿を検査し、勘定奉行の可判を受けた上で決算書類を作成  (wikipedia・勘定奉行勘定所より)]

[勘定組頭は1664年(寛文4)初めて6人が置かれ,御殿詰,上方,関東方に分けられていたが,1723年(享保8)この区分は廃止され,勘定奉行による一元的代官統制が実現した。1721年勘定所職務は司法を行う公事方と財政事務を行う勝手方に分かれ,翌年勘定奉行,勘定吟味役も双方に分かれ2人ずつ1年交代で勤務した。公事方は役宅で,勝手方は御殿,下勘定所で執務した。  (「公事方 とは – コトバンク – Kotobank – 世界大百科事典内の公事方の言及」より)]

松平近直
[松平 近直(まつだいら ちかなお、? – 安政7年(1860年)3月7日)は、幕末勘定奉行。通称は金之丞、四郎。阿部正弘執政期の能吏。
大給松平氏の一門で中奥小姓を勤めた旗本松平近礼(筑前守)の子。兄弟に品川氏繁がいる。使番・目付等を経て、天保15年(1844年)勘定奉行(勝手方)となる。同年12月16日河内守に叙任。江戸城台場の普請等でたびたび褒賞を得ている。のち留守居次席田安家家老に至った。安政7年(1860年)没し、橋場・妙高寺に葬る。子の近豊(若狭守)が先に没していたので、養子の近知(志摩守)が家督を継いだ。  (wikipedia・松平近直より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」[嘉永3年(1850年)尾張屋版絵図右下方向・岩城伊予守の左、御勘定奉行役屋敷松平河内守(松平近直・1844年 – 1857年)と描かれています。この役宅屋敷地はこの後、永井玄蕃頭尚志が勘定奉行(1857年 – 1858年)時代役宅としても使用し、万延元年(1860年)から文久2年(1862年)まで蕃書調所となりその後新見正興屋敷になります。(文久3年・1863年改正尾張屋版に「新見豊前守」と描かれています。同じ絵図の二合半坂にも「新見豊前守」と描かれていますので、ここは外国奉行役宅として使用したものと思います。)]

カメラ位置付近に小石川御門内勘定奉行役宅があったようです。

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