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滝沢馬琴の硯の井戸跡
[滝沢馬琴は、江戸時代の著名な小説家。『南総里見八犬伝』の作者として知られています。寛政5年(1793)27歳で当時飯田町中坂と呼ばれたこの地の履物商伊勢屋に婿入りし、58歳で神田同朋町[曲亭馬琴(滝沢馬琴)住居跡(芳林公園)]に移るまでここに住んでいました。付近に立つマンション入口に井戸枠が設置されています。東京都の旧跡に指定されています。画像リンク (千代田区観光協会ホームページより)
滝沢馬琴(曲亭馬琴)
[曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日(1767年7月4日) – 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、瀧澤興邦)で、後に解(とく)と改める。号に著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など。代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。
滝沢馬琴(たきざわ ばきん)の名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。現在確認できる限り本人は滝沢(瀧澤)馬琴という筆名は用いていない。馬琴自身は「曲亭馬琴」という筆名について、中国の古典から取ったと説明している。しかし「曲亭馬琴」は「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味であるとも指摘されている。幼名は春蔵のち倉蔵(くらぞう)、通称は左七郎(さしちろう)、瑣吉(さきち)。著作堂主人のほか、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)、蓑笠漁隠(さりつぎょいん)、飯台陳人(はんだいちんじん)、玄同(げんどう)など、多くの別号を持った。
滝沢馬琴宅跡の井戸案内板・wikipedia-photo
滝沢馬琴宅跡の井戸のある庭・wikipedia-photo
滝沢馬琴宅跡の井戸のある庭-2・wikipedia-photo
滝沢馬琴邸跡井戸・wikipedia-photo
(wikipedia・曲亭馬琴より)]
「滝沢馬琴誕生の地」、「曲亭馬琴(滝沢馬琴)住居跡」、「滝沢馬琴終焉の地」
デジタル図書へリンク・南総里見八犬伝. [第1輯] 巻之1-5 / 曲亭主人 編次 ; 柳川重信 画
カメラ南東方向・マンション通路壁際に滝沢馬琴の硯の井戸跡碑と案内板が設置されています。通路を進むとマンションの中庭に滝沢馬琴の硯の井戸跡が保存されています。