神戸藩本多家上屋敷跡

マーカーは神戸藩本多家上屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP517・コマ番号302/553から神戸藩屋敷の変遷について記載されています。P519・コマ番号303/553「上屋敷 神田橋外」がこの地になります。

神戸藩本多家
[神戸藩(かんべはん)は、伊勢国河曲郡周辺を領有した藩。藩庁は神戸城三重県鈴鹿市神戸)。
石川総茂享保17年(1732年)には常陸国下館藩に転封となった。替わって河内国西代藩より本多忠統が1万石で入部した。延享2年(1745年)には5000石を加増され、以後1万5000石が神戸藩の知行高となった。忠統が若年寄に就任したことにより築城を許され、寛延元年(1748年)には神戸城が再興された。忠統は文人大名としても有名で、荻生徂徠の門人であり、また茶人としては宗範を名乗っていた。城内に「三教堂」、江戸藩邸に「成草館」という藩校をそれぞれ興したのもこの忠統である。
第5代藩主本多忠升享和3年(1803年)に倹約令を出したが、自身も節食するほど徹底したものだった。また藩校を改革し、従前の古学を朱子学に変更するとともに、文化10年(1813年)には城内の藩校を「教倫堂(こうりんどう)」、江戸の藩校を「進徳堂」と改めている。
第6代藩主本多忠都の時代の嘉永7年(1854年)に起きた安政東海地震では、神戸城と城下町に大きな損害を被り、47人の死者が出た。
明治4年(1871年)、廃藩置県により神戸県となり、その後安濃津県を経て三重県に編入された。  (wikipedia・神戸藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図左上に本多豊前守(本多忠升)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は神田橋交差点で、カメラ北北西方向が神戸藩本多家上屋敷跡になります。