荻原重秀屋敷跡付近

マーカーはカメラ位置です。

荻原重秀屋敷跡
[荻原重秀が勘定奉行の職にあったのは元禄9年4月11日から正徳2年9月11日。『江戸幕府役職武鑑編年集成 5』『大武鑑 上』で当時の武鑑を確認すると、「やしきさるかく丁」あるいは「猿楽町」とあり。
『江戸城下変遷絵図集 3』の猿楽町を見ると、元禄6(1693)年・宝永年中(1704-1711)の絵図に「荻原近江守」の屋敷が確認できる。  (「江戸中期の勘定奉行、荻原重秀の江戸屋敷はどこにあったかを知りたい」より)]

荻原重秀
[荻原 重秀[おぎわら しげひで、万治元年(1658年) – 正徳3年9月26日(1713年11月13日)]は、江戸幕府勘定奉行。管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで有名。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下・近江守。
旗本荻原十助種重(200俵)の次男として江戸に誕生。延宝2年(1674年)10月26日に幕府勘定方に列し、11月7日に将軍徳川家綱にはじめて謁見。延宝3年(1675年)12月21日、切米150俵を支給された。延宝7年(1679年)12月3日、先の五畿内検地の功績で時服二領羽織一領を与えられた。天和元年(1681年)に上野国沼田藩真田伊賀守信利が改易にされた際にはその郷村の受け取りのために沼田へ赴いた。天和3年(1683年)10月11日、勘定組頭に就任。12月21日に100俵を加増。
貞享4年(1687年)9月10日、勘定頭三名の罷免により勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)に任命され、さらに300石を加増され、先の250俵の切米も領地に代えられて都合550石を領した。12月25日には布衣の着用を許された。元禄2年(1689年)8月21日、200石加増(都合750石)。元禄3年(1690年)10月7日には佐渡奉行に任ぜられた。
元禄8年(1695年)12月22日、1,000石の加増(都合1,750石)。9年(1696年)4月11日、勘定奉行に就任し、250石を加増(2,000石)。12月22日に従五位下近江守に就任した。元禄11年(1698年)12月21日にはさらに500石の加増があり(都合2,500石)、元禄12年(1699年)4月には長崎へ赴いている。元禄16年(1703年)2月にも稲垣重富の副使として京都大阪・長崎などへ赴いている。宝永2年(1705年)12月11日に700石加増される(都合3,200石)。
宝永6年(1709年)に将軍徳川綱吉が死去し、徳川家宣が六代将軍となると、新井白石などの家宣近臣達との関係が悪化。宝永7年(1710年)4月25日、張り紙値段を勝手に引き下げようとして、将軍家宣への拝謁を禁止されているが、わずか4日後の29日には許されている。12月11日には500石の加増を受けており、都合3,700石を領した。さらに正徳元年(1711年)7月18日にも評定所での精勤ぶりをもって熨斗縮絹紬、越後縮などを与えられている。
しかし新井白石の憎悪は深く、度重なる弾劾を受けて、病没寸前の家宣はついに折れ、正徳2年(1712年)9月11日に勘定奉行を罷免された。嫡男の荻原乗秀には辛うじて越前国坂井郡で700石の相続が許された。正徳3年(1713年)9月26日に死去。絶食して自害したとも言われる。東京都台東区谷中の長明寺に葬られた。法名は日秀居士。  (wikipedia・荻原重秀より)]

カメラ位置は表猿楽町通り(神田神保町1丁目22地先)で、カメラ北北東方向が裏猿楽町通りになります。この付近に荻原重秀屋敷があったようです。

貨幣改鋳
[元禄時代になると新たな鉱山の発見が見込めなくなったことから金銀の産出量が低下し、また貿易による金銀の海外流出も続いていた。その一方で経済発展により貨幣需要は増大していたことから、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞する、いわゆるデフレ不況の危機にあった。それをかろうじて回避していたのが将軍徳川綱吉とその生母桂昌院の散財癖だったが、それは江戸幕府の大幅な財政赤字を招き、この頃になると財政破綻が現実味を帯びたものになってきていた。そうした中で、綱吉の治世を通じて幕府の経済政策を一手に任されたのが重秀だった。
重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はない、という貨幣国定学説を200年余りも先取りした財政観念を持っていた。従前の金銀本位の実物貨幣から幕府の権威による信用通貨への移行することができれば、市中に流通する通貨を増やすことが可能となり、幕府の財政をこれ以上圧迫することなくデフレを回避できる。そこで重秀は元禄8年(1695年)、慶長金慶長銀を改鋳して金銀の含有率を減らした元禄金元禄銀を作った。訊洋子(ジンヨウ)が著した『三王外記』(三王外記 – 古典籍総合データベース – 早稲田大学)には、このときの重秀の決意を表した「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を伝えている。
幕府の改鋳差益金は約500万両にもなった。従来この貨幣改鋳は経済の大混乱を招き、未曾有のインフレ(元禄バブル)をもたらしたと考えられてきたが、金沢大学教育学部教授の村井淳志の研究によれば、元禄期貨幣改鋳の後11年間のインフレ率は名目で平均3%程度と推定され、庶民の生活への影響はさして大きなものではなかったという。その一方で、改鋳により豪商や富裕層が貯蓄していた大量の慶長金銀の実質購買力は低下し、商人たちは貨幣価値の下落に直面して貯蓄から投資へ転じた。こうして従前は幕府の御金蔵から商家の蔵へ金銀が流れる一方だった経済構造に変化が生じ、これ以上幕府財政に負担をかけずに緩やかなインフレをもたらすことが実現された。その結果経済は元禄の好景気に沸いたのである。
しかしこの時期は、関東の元禄地震東海〜南海宝永地震富士山宝永大噴火など大規模な自然災害に加え、宝永の大火による内裏焼失や将軍代替わりによる出費が続いたこともあり、幕府の赤字財政からの脱却は困難を極めた。重秀は一方では佐渡金山にテコ入れ策を講じ、また一方では長崎貿易を増加して運上金を徴収、幕府史上初めての大名への課税、さらには全国の酒造家にも50%の運上銀をかけるなど、一貫して幕府歳入の増加に努めたが、焼け石に水だった。そこで財政赤字の補填を目的として宝永3年(1706年)には宝永銀、宝永7年(1710年)には宝永金永字銀と立続けの貨幣改鋳を行ったが、今回は特に銀貨の品位が大幅に低下して通貨量が増大したことから著しいインフレが発生、商人が保有する資産価値が低下し景気悪化した。撩乱した元禄文化はここに終止符を打ったのである。  (wikipedia・荻原重秀より)]

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