飯山藩本多家上屋敷跡

マーカーは飯山藩本多家上屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP358・コマ番号223/553から飯山藩屋敷の変遷について記載されています。P360・コマ番号224/553「上屋敷 小川町」がこの地になります。

飯山藩本多家
[飯山藩(いいやまはん)は、信濃国水内郡(現在の長野県飯山市)飯山を支配した藩。藩庁は飯山城
享保2年(1717年)に青山幸秀丹後宮津藩に移封された。代わって越後糸魚川藩より本多助芳が2万石で入る。この本多氏は、本多正信に近い系統である。
糸魚川1万石から1万石加増されて2万石になったが、しかしこれはあくまで表高であり、実高としては同地は相次ぐ千曲川の水害のために、糸魚川1万石よりも収入が少なかった。助芳の頃の家老の本多弥五兵衛の工作などが幕府に認められたこともあり、享保9年(1724年)に替え地が用意され、石高も3万5000石となった。本多家は飯山藩領を城下・外様組・川辺組・山之内組に分けて支配した。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、藩主の本多助成は新政府への態度が曖昧であるとして叱責を受けている。越後高田藩方面から旧幕府軍の衝鋒隊が飯山藩領に侵入し、飯山を拠点化しようとした。この動きに対しても藩は当初は日和見的な態度を取っていたが、突然衝鋒隊に対して発砲し、城下は戦火の被害を受けている。その後北越戦争会津戦争に参戦した。翌年、第9代藩主・本多助寵版籍奉還により飯山知藩事となる。  (wikipedia・飯山藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央左上に本多豊後守(本多助賢)上屋敷が描かれています。

カメラ北方向道路両サイドが飯山藩本多家上屋敷跡になります。