マーカーはカメラ位置です。
小川町定火消屋敷跡
[安政2年(1855年)に江戸で起こった「安政江戸地震」により、小川町と八代洲河岸の火消屋敷が延焼範囲の中にある。史料によれば「小川町火消屋敷出火潰れニて死人多。」、「八代洲河岸定火消屋敷潰、櫓は屋根計り落下。」とある。このように、これらの史料から、火消屋敷は倒壊しその後の火災で焼失したと推察できる。 (「安政江戸地震における地震火災に関する研究 -江戸の都市 … – 地域安全学」より)]
[安政江戸地震により、小川町定火消屋敷は神田美土代町(東京電機大学15号館周辺・Google Maps)に移転して、跡地に「洋学所(後の蕃書調所)」が開設される。]
「小川町定火消屋敷(定火消屋敷 江戸の大変) – 気ままに江戸 …」
[幕末にかけての武家火消の活動
享保の改革による町火消の確立後、幕末にかけて江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へと移行していく。元文元年(1736年)以降、方角火消は江戸城風上の火事か大火の場合のみ出動と改められる。寛政4年(1792年)には、定火消が町人地へ出動しないことになった(風の強い日に起きた火事のみは例外であった)。文政2年(1819年)には定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は町火消の担当となった。こうした武家火消の出動範囲減少は、町火消の能力が幕府に認められたためであった。
黒船来航から2年後の安政2年(1855年)、定火消が2組削減されて8組となる。文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止され、所々火消も削減されて担当が11箇所から3箇所となった。慶応2年(1866年)には定火消8組が半減されて4組に、翌慶応3年には1組128名のみの構成となり、江戸の消防体制は町火消へ全面的に依存するようになる。この定火消の大幅な削減は、幕府の洋式軍備拡大が原因であり、大名火消の削減は文久の改革による参勤交代の緩和が原因であった。
明治元年(1868年)、新政府によって武家火消はすべて廃止され、代わりの消防組織として火災防御隊が設けられた。火災防御隊は兵部省に所属し、皇城(江戸城)の消防を担当すると定められたが、翌年には廃止されている。 (wikipedia・火消より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五年(1808年)調」(コマ番号2/4・絵図中央下「高井飛騨守」「大岡亀之丞」下に「火消御役屋敷」が描かれています。)
「東京都立図書館 – 江戸曲輪図」(文政[1818-1830]・絵図四つ切左下、「一橋御門」下方向「榊原遠江」下に「定火消」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永3年・1850)」[絵図一ッ橋御門下方向・榊原式部大輔の下に、「定火消御役屋敷水野監物」と記述され、その下明楽大隅守と岡部因幡守の間に「火消組屋敷」が描かれています。]
「東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国神田区駿河台及本郷区湯嶋近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切左下の中央下、字「裏神保」の下が小川町定火消屋敷跡になります。)
「東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切左上、表神保町の字「保町」を含む左側が小川町定火消屋敷跡になります。)
(神田上水樋管)
「神田上水留. [28] 小川町火消御役屋敷掛樋枡井戸共御修復一件 嘉永六(1853)丑年七月より 御普請方 分冊ノ一」(16~18/70・小川町定火消役屋敷と火消組屋敷内の神田上水樋管が描かれています。)
カメラ南方向に小川町定火消役屋敷があり、カメラ北方向に火消組屋敷がありました。
定火消
[定火消(じょうびけし、江戸中定火之番)は、万治元年(1658年)にはじまる江戸幕府直轄の火消。明暦の大火の翌年、4000石以上の旗本4名(秋山正房・近藤用将・内藤政吉・町野幸宣)を選び、それぞれに与力6名・同心30名を付属させて設けられた。幕府直轄の消防組織であり、若年寄の所管、菊間詰の役職であった。4名の旗本には専用の火消屋敷と火消用具を与え、臥煙と呼ばれる専門の火消人足を雇う費用として300人扶持を加算した。 4箇所の火消屋敷はそれぞれ御茶ノ水・麹町半蔵門外・飯田町・小石川伝通院前に設けられ、すべて江戸城の北西であった。この屋敷の配置は、冬に多い北西の風による、江戸城延焼を防ぐためである。宝永元年(1704年)以降は10組(定員1280名)での編成となる。 このため、総称して十人屋敷や十人火消などとも呼ばれた。10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池・赤坂門外・飯田町・市谷左内坂・小川町・御茶ノ水・麹町半蔵門外・駿河台・八重洲河岸・四谷門外であった。定火消を命じられた旗本は、妻子とともに火消屋敷で居住した。火消屋敷は約3000坪の広い敷地を持ち、緊急出動用に馬も準備されていた。敷地内には3丈(約9.1m)の火の見櫓が設けられ、合図のため太鼓と半鐘がそなえられていた。この火消屋敷が、現在の消防署の原型である。屋敷内には臥煙の寝起きする詰所があり、夜には長い1本の丸太を枕として並んで就寝した。夜に火事の連絡が入ると、不寝番がこの丸太の端を槌で叩き、臥煙を一斉に起こして出動した。 出動に当たっては火事装束を身につけ、纏番を先頭に立て、騎馬の定火消と与力、続いて同心に臥煙という順番で隊列を組み、火事場に向かった。 (wikipedia-火消より)]