高松藩松平家上屋敷跡(神田上水樋管)

マーカーはアイガーデンエアです。

関連リンク – 水道橋金刀比羅宮(高松藩中屋敷邸内社)高松藩松平(水戸)家下屋敷(現国立科学博物館付属自然教育園)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP554・コマ番号321/553から高松藩屋敷の変遷について記載されています。P555・コマ番号321/553「上屋敷 小石川御門内」がこの地になります。P556・コマ番号322/553「中屋敷 小石川門内」が上屋敷に隣接する中屋敷になります。

高松藩松平家上屋敷跡(アイガーデンエア)
[小石川門の門内には、高松藩松平家の上屋敷中屋敷がありました。高松藩の藩祖は、松平頼重です。松平頼重は、水戸徳川家の藩祖徳川頼房の長男です。事情があり、水戸徳川家は三男の徳川光圀が継ぎました。そして、松平頼重は、讃岐国高松藩12万石を開きました。その高松藩の上屋敷と中屋敷は、江戸時代には日本橋川が埋め立てられていたため向かい合ってありました。現在、上屋敷の跡はJR貨物が主となってできた再開発事業のアイガーデンエアとなっています。  (「気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 : 小石川門 (三十六見附 13)」より)]

[飯田町貨物駅跡と讃岐高松藩邸跡 徳川家康入府以前は千代田村と呼ばれた場所で、家康が江戸に入ったときに、飯田喜兵衛がこの地を案内したので、喜兵衛が名主となり、飯田町と呼ばれるようになった。その後、大名、旗本屋敷が置かれ、水戸徳川家始祖頼房の長男頼重を祖とする讃岐高松藩の上屋敷となった。明治に入ると飯田町は正式な町名になり、明治28年に甲武鉄道飯田町駅が開設された。国電の元祖と呼ばれる電車の始発駅となる。昭和8年に旅客営業を廃止し、平成11年3月には廃駅となった。山手線内最後の貨物駅だった。跡地にはJR貨物の本社やアイガーデンエアなどの複合施設などが建設されて再開発された。  (「次回オフの見どころ-日本橋川見どころ」より)]

神田上水樋管
神田上水留. [2] 神田上水小川町御住居掛新規樋枡御普請一件 天保五午年七月 御普請方 分冊ノ一」(43/116・神田上水掛樋から高松藩松平家中屋敷までの神田上水樋管が描かれています。)
神田上水留. [3] 神田上水小川町御住居掛新規樋枡御普請一件 天保五午年七月 御普請方 分冊ノニ」(12/76・神田上水掛樋から高松藩松平家中屋敷までの神田上水樋管が描かれています。)

資料リンク
国立国会図書館 – 元禄江戸大繪圖(出版年月日・[宝永(1704年-1711年)年間])」[コマ番号2/5・絵図中央下方向、小石川御門左に松平讃岐守(松平頼豊)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 小川町駿河台元飯田町辺 : 文化五年(1808)調」[コマ番号3/4・絵図中央左、小石川御門右に松平讃岐守(松平頼儀)が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図[嘉永三(1850)年]」[絵図右下、小石川御門上・松平讃岐守(松平頼胤)の上屋敷、中屋敷が並んで描かれている。]

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区飯田町及小石川区小石川町(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中央・砲兵本廠付属生徒舎・四丁目の部分が高松藩松平家上屋敷跡で、その右陸軍練兵場の左上半分が中屋敷跡になります。)

カメラ東北東方向・街路灯右でガードパイプ側に「飯田町遺跡周辺の歴史」案内板があります。日本橋川の西側が上屋敷跡、東側が中屋敷跡です。(Google Maps)

カメラ東北東方向に「讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡」案内板(画像リンク)があります。(Google Maps)

カメラ東方向に「讃岐高松藩上屋敷庭園跡」案内板(画像リンク)があります。(Google Maps)
[讃岐高松藩上屋敷庭園跡」案内板の画像は「讃岐高松藩上屋敷庭園跡|芳村直樹のブログ」からのリンクです。]

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