刈谷藩土井家下屋敷跡

マーカーは刈谷藩土井家下屋敷跡です。

関連リンク – 刈谷藩土井家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP531・コマ番号309/553から刈谷藩屋敷の変遷について記載されています。P532・コマ番号310/553「下屋敷 巣鴨」がこの地になります。

土井利善
[土井 利善(どい としよし)は、天保元年(1830年)、遠江浜松藩井上正甫の九男として生まれる。弘化3年(1846年)12月に三河刈谷藩第8代藩主土井利祐が死去したため、弘化4年(1847年)3月に末期養子として家督を継ぎ、4月19日に第12代将軍徳川家慶に拝謁し、12月16日に従五位下・大隅守に叙位・任官する。奏者番に任じられ、その後も文久3年(1863年)1月12日に寺社奉行、5月1日に陸軍奉行と歴任し、6月に江戸城桜田門番に任じられた。早くから西洋式軍隊の優位性を認識し、自藩内で西洋式軍事訓練を行うなど先見性に富んだ譜代大名として幕閣での将来を嘱望されていた。
しかし、もともと井上家から養子に入った上、実子が早世して養子問題などで藩内部で対立が起こり、さらに尊王派の藩士(松本奎堂宍戸弥四郎)が長州藩士を匿って天誅組の変に中心的人物として参加するなどしたことから、幕府からの圧迫を受け、さらに土井家の本家からも圧力を受けた。失意に落ちた利善は、慶応2年(1866年)7月19日に家督を養子の利教に譲って隠居した。
慶応3年(1867年)3月20日に死去した。享年38。  (wikipedia・土井利善より)]

土井利教
[土井 利教(どい としのり)は、弘化4年(1847年)、播磨林田藩建部政醇(聖岡)の次男として生まれる。慶応2年(1866年)7月19日に第8代藩主土井利善の隠居により、その養子として家督を継ぎ、12月18日に従五位下・淡路守に叙位・任官する。建部家から養子を迎えたのは、建部家が佐幕派であり、土井家中の尊皇攘夷派を掃討して親幕を示すためだった。
慶応3年(1867年)から財政再建を中心とした藩政改革に着手した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し、藩内は佐幕派と尊王派で対立した。2月16日、勤王派18人の藩士が佐幕派の3人の家老を暗殺し、ようやく藩内の意見は勤王でまとまった。2月25日、藩主利教は上洛した。3月6日、明治天皇に拝謁した。閏4月29日、新政府から駿府城の守備を命じられた。
明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により刈谷知藩事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で知藩事を免職された。その後、東京へ移ったが、明治5年(1872年)11月14日に死去した。享年26。  (wikipedia・土井利教より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駒込絵図(嘉永七年・1854年)」(絵図左端中程・土井大炊頭下屋敷下に土井大隅守(土井利善)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [23]貮拾元(嘉永七年・1854年)」(コマ番号2/5・絵図中央に土井大隅守(土井利善)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は文京区白山5丁目26-10地先T字路で、カメラ西方向が刈谷藩土井家下屋敷跡になると思います。