広島藩浅野家上屋敷跡(国土交通省・中央合同庁舎第2号館)

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP911・コマ番号499/553から広島藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 外櫻田霞ヶ関」がこの地になります。

広島藩浅野家
[毛利氏戦国時代、安芸武田氏を討って安芸を平定すると、大内義長を滅ぼし、尼子義久を降伏させて中国地方の大半(一時は九州の一部にも及ぶ)を領する大大名となる。天正19年(1591年)には広島城が築城されて毛利氏の居城となり、広島は政治・経済の中心地となった。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として参戦し敗戦した毛利輝元は、戦後、山陰山陽の112万石から周防長門2国(長州藩・現在の山口県)29万石に減封された。
毛利家のあとは安芸備後2か国の49万8000石の太守として、尾張国清洲より福島正則が入封した。正則は慶長6年(1601年)から検地を実施し、毛利家時代に不徹底に終わった兵農分離石高制の移行を行なった。しかし安芸は土豪の勢力が根強かったことから、一部に妥協して郷士制も残している。また、城下町の建設や国内産業の発展なども正則の時代に行なわれ、広島藩の藩政が確立した。
しかし正則は大坂の陣が終わった後の元和5年(1619年)6月、洪水で損壊した広島城を無断改修した武家諸法度違反の咎により、大幅減封の上信濃国川中島藩転封された。実際は豊臣家恩顧の有力大名であり、大坂の陣によって江戸幕府が豊臣家を滅亡させたことに異を唱えたことによるものであったと思われる。
代わって紀州藩より、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男・浅野長晟が安芸1国・備後8郡の42万6000石で入封した。広島大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ、藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いた。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ、相場を見極めて売りさばき巨利を得て、「芸侯の商売上手」と江戸時代中期の学者・海保青陵(儒学・経済学)より評された。
長晟は福島家時代の政策を踏襲するが、その一方で土豪に対しては厳しい態度で臨み、統治機構の近代化を目指した。
第2代藩主・光晟(長晟の次男)は徳川家康の外孫であったため、幕府の許しを得て光晟の庶兄・浅野長治に5万石を分与した。これが支藩である三次藩の立藩であり三次陣屋が置かれた。光晟は街道整備に尽力し、また松平姓を名乗ることも許された。
第3代藩主・綱晟(光晟の長男)は正室、継室にいずれも九条道房の娘を迎えている。道房の母は豊臣秀勝の娘である豊臣完子であり、以降の浅野宗家は豊臣家の血を女系で受け継ぐことになる。
第4代藩主・綱長(綱晟の長男)時代の元禄14年(1701年)、分家の赤穂藩主・浅野長矩刃傷事件を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、進藤俊重小山良速など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の大石良雄の盟約にも切り崩しをはかり、進藤俊式小山良師ら大石側近を説得して脱盟させている。もっとも、討ち入りそのものの阻止は出来なかった。しかし数年後、態度を一変させて大石良雄の三男・良恭や小山氏・萱野氏など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。藩では浅野家との婚姻により、大石家を一門化しようとしたがことごとく失敗し、大石家は減封・絶家・再興・除籍・他家からの養子入りが繰り返された。なお、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や藩札の発行が行なわれている。
第11代藩主・長訓重晟の孫)は先代からの藩政改革を受け継ぎ、文久2年(1862年)、辻将曹を家老に抜擢し文久の改革を行なった。藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化し軍備を近代化し、成功をみた。長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた。しかし長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。
慶応2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結び、倒幕に踏み切った。一方で、第15代将軍・徳川慶喜大政奉還の建白を行うなどしたため、日和見藩として不信を招き、明治維新の主流からは外された形となった。しかし戊辰戦争では官軍に参加して戦った。  (wikipedia・広島藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図中央右上・松平安芸守(浅野長訓)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(コマ番号3/3・絵図中央上に松平安芸守(浅野長訓)と記述されています。)

カメラ東南東方向が国土交通省です。