広島藩浅野家中屋敷跡(国会議事堂)

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP911・コマ番号499/553から広島藩屋敷の変遷について記載されています。P912・コマ番号500/553「中屋敷 永田馬場」がこの地になります。

浅野斉粛
[浅野 斉粛(あさの なりたか)は、安芸国広島藩8代藩主・浅野斉賢の長男として誕生。幼名は勝吉。初めは長粛(ながたか)を名乗っていたが、のちに父同様に義父でもある徳川家斉偏諱を授かり斉粛に改名した。
文政6年(1823年)6月18日、家斉の二十四女・末姫と縁組する。天保2年(1831年)1月20日、家督を相続した。天保3年(1832年)7月23日、従四位下・侍従・安芸守に任官する。天保7年12月16日(1837年)、左少将に任官した。天保11年12月16日(1841年)、従四位上に昇進する。斉粛の治世の広島藩は天保の大飢饉、河川の普請工事、将軍の姫との婚儀など、天災や事業、行事などが重なって、藩政は多難を極め、財政は火の車となった。このため、斉粛は野村帯刀を登用して藩政改革に取り組んだが、あまり効果は得られなかった。
安政5年(1858年)4月12日、長男の慶熾に家督を譲って隠居した。慶応4年(1868年)正月12日、52歳で死去した。  (wikipedia・浅野斉粛より)]

浅野慶熾
[浅野 慶熾(あさの よしてる)は、天保7年11月12日(1836年12月19日)9代藩主・浅野斉粛の長男として誕生。
嘉永4年(1851年)3月25日、元服し、12代将軍徳川家慶より偏諱を授かり慶熾に改名する。また、従四位上・侍従・上総介に任官する。安政5年(1858年)4月12日、父の隠居により跡を継ぐ。通称を安芸守に改める。幼少期から聡明で知られており、その力量は時の名君と呼ばれた島津斉彬山内豊信松平慶永らからも一目置かれるほどであったが、家督を継いでから半年足らずの同年9月10日に江戸で死去した。跡は養嗣子の長訓が継いだ。  (wikipedia・浅野慶熾より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永3年・1850年)」(絵図中央右上・松平安芸守(浅野斉粛)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久<元年・1861年)」(コマ番号3/3・絵図中央左上に松平安芸守(浅野長訓)上屋敷、その左下に中屋敷が描かれています。) カメラ位置は国会議事堂正面で、議事堂正門玄関が広島藩浅野家中屋敷跡になると思います。