米沢藩上杉家上屋敷跡(法務省旧本館)

マーカーは米沢藩上杉家上屋敷跡碑です。

関連リンク – 米沢藩上杉家中屋敷、米沢新田藩上屋敷(外務省飯倉公館、麻布郵便局)米沢藩上杉家下屋敷跡(服部金太郎邸(ハットリハウス))

米沢藩上杉家上屋敷跡碑
[「関ケ原の戦いの後、上杉景勝徳川家康によって出羽米沢三十万石に移封されました。慶長8年 (1603) 桜田門外の当地(現法務省の一部) に建てられた上杉家の江戸屋敷は 「桜田屋敷」 と呼ばれ、幕末まで江戸藩邸として中心的な役割を果たしました。下の絵図は江戸時代初期に制作された「江戸図屏風」に描かれた藩邸の様子です。《2003年5月16日 米沢市》」

法務省旧本館
[法務省旧本館は、東京都千代田区霞が関にある歴史的建造物(重要文化財)。中央合同庁舎第6号館赤れんが棟とも。
旧司法省庁舎として1895年に竣工したドイツ・ネオバロック様式歴史主義建築である。基本設計は建築顧問官を務めていたお雇い外国人のドイツ人建築家ヘルマン・エンデ(Hermann Gustav Louis Ende)とヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm Böckmann)で、実施設計と工事監理は河合浩蔵が行った。官庁集中計画は頓挫したが、旧大審院(最高裁判所)庁舎とともに明治の近代公共建築を象徴する建物となった。
1923年の関東大震災では煉瓦外壁が鉄材補強されていたことでほぼ無傷で乗り切ったものの、1945年の空襲により壁面と床以外を全て焼失した。1950年に法務府庁舎(1952年からは法務省本館)として再利用されることになるが、それにあたっての改修工事では屋根材(雄勝石スレートから)等に変更が加えられた。しかし1994年の改修工事では文化財としての観点から創建時の外観に戻され、法務総合研究所及び法務図書館として利用されるようになった。同年12月27日には国の重要文化財に指定。
この敷地は江戸時代に米沢藩上杉家藩邸(上屋敷)であり、その記念碑も建立されている。
近代史をテーマにした映画・ドラマのロケに使用されることが多い。
利用情報
開館時間 – 午前10時~午後6時(入館は午後5時30分まで)
休館日 – 土・日・祝祭日
中央合同庁舎第6号館赤れんが棟(法務省旧本館)・wikipedia-photo、「正門、守衛室」・wikipedia-photo、全景・wikipedia-photo、屋根・wikipedia-photo  (wikipedia・法務省旧本館より)]

法務省:見学・アクセス」、「お答えします 法務省の見学について

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡江戸〔庄〕図(出版年月日・〔寛永9(1632)頃〕刊」(絵図四つ切左上・外桜田御門左方向に「上杉弾正」(上杉定勝)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸大絵図(出版年月日・寛文10(1670)刊」(絵図中央上方向・外桜田御門左下に「上杉喜平次」(上杉綱憲)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永3年・1850年)」[絵図桜田御門前・上杉弾正大弼(上杉斉憲)が米沢藩上杉家上屋敷です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(コマ番号3/3・絵図中程上に「上杉弾正大弼」(上杉斉憲)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号71/87「延宝(1673-1681)年中之形」(上杉綱憲)、71/87右ページ「文化五(1808)年当時之形」(上杉治憲)、右ページ「文政十(1827)年之形」(上杉斉定)、73/87「文久元(1861)年当時之形」(上杉斉憲)の絵図上に「上杉弾正大弼」と描かれています。)

カメラ南東方向・植え込みの中に米沢藩上杉家上屋敷跡碑が設置してあります。

カメラ南方向が法務省旧本館です。

カメラ東南東方向が法務省旧本館正面ゲートです。

米沢藩上杉家
[米沢藩(よねざわはん)は、出羽国明治維新以降の羽前国置賜郡にあって現在の山形県東南部(置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様大名国主、石高は30万石、のち15万石から18万石。
米沢は戦国時代の1548年から1589年、1590年から1591年には伊達氏の本拠地であったが、豊臣秀吉によって伊達政宗陸奥国岩出山城に転封された後、会津に入った蒲生氏、ついで上杉氏の支配下に入った。上杉景勝は家老・直江兼続に30万石(一説には甘粕氏の刈田郡白石城を含め32万石)を与えて米沢に入れ、伊達氏及び山形の最上氏に対する抑えとした。しかし上杉氏は関ヶ原の戦いに先立って徳川家康に敵対したため、1601年(慶長6年)、景勝は120万石から30万石に減封され、居城も米沢に移した。兼続は米沢城を景勝に譲り、米沢藩が成立する。藩領は、上杉氏の旧会津領120万石のうち、出羽国置賜郡(置賜地方)18万石と陸奥国伊達郡(現伊達市伊達郡福島市)および信夫郡(現福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣・本庄氏を城代として置いた。
1664年(寛文4年)に3代上杉綱勝が嗣子を定めないまま急死する。本来なら改易となるところ、綱勝の舅である会津藩保科正之の尽力によって、綱勝の妹富子高家吉良義央の間に生まれた上杉綱憲末期養子に認められ、半減の置賜郡内15万石での存続が認められた。
深刻な財政難にもかからず、綱憲は実父・吉良義央夫妻の浪費による負債を立て替え、麻布藩邸などの新築、参勤交代などでの奢侈を行ない、藩の貯金を一般会計に流用するまでに至る。7代藩主上杉宗房の代では領内農村の荒廃がすさまじく、年貢未進もかさんでいたため、1738年(元文3年)には当年分完納を条件に、それ以前7ヶ月の未納分の延納を許可する有様であった。上杉重定の代になると、派手好きで奢侈に走ったことに加え、寛永寺普請手伝いによる5万7千両超の工事費や1755年(宝暦5年)の凶作損毛高7万5千8百石超の被害も重なって、借財が莫大な額に上ったので、竹俣当綱(美作)の進言に従って幕府に15万石の返上を願い出ることを親族の尾張藩主に相談して、1764年(明和元年)に諭される返答をされる始末であった。1767年(明和4年)、17歳で重定の跡を継いだ養子の上杉治憲(鷹山)は竹俣当綱と莅戸善政らを登用して藩政改革に乗り出した。倹約令発布、農村統制の強化、絹織物の専売制実施等の財政再建と、桑や漆の植樹、縮織技術の導入や黒井忠寄による灌漑事業などの殖産興業政策を行って藩財政を立て直した。また、先述のとおり特産品の青苧、紅花、蝋等も藩財政を助けた。儒学者細井平洲を招いて藩校の興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)を設け、藩士の教育にもあたった。一方で、1773年(安永2年)7月には家老の須田満主や奉行の色部照長千坂高敦らによる竹俣一派排除訴訟(七家騒動)も起こる。
戊辰戦争では、会津藩の討伐をはかる新政府軍に対し、保科正之への恩義もあることから仲介に務めるが、果たせずに奥羽越列藩同盟に加わり、仙台藩とともにその中核を担うこととなった。仙台藩が奥州街道・常磐方面を担当したのに対し、米沢藩は故地でもある越後を担当したが、最終的には新政府軍に敗北を重ね、羽越国境の大里峠まで迫られたところで降伏した。その後、新政府軍の命により庄内藩討伐のために兵を出し、会津藩に対しても降伏を説得した。  (wikipedia-米沢藩より)]

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