紀州徳川家上屋敷跡(清水谷公園・上水石桝)

マーカーは清水谷公園です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP478・コマ番号283/553から和歌山藩(紀州藩徳川家)屋敷の変遷について記載されています。P479・コマ番号283/553「中屋敷 麹町五丁目 紀尾井町」がこの地になります。

紀州徳川家上屋敷跡
[「和歌山県史」に、元和元年(1618年。徳川頼宜が初代紀州藩主になったのは1619年)拝領、明暦3年(1657年)の大火・振袖火事で焼失、その後、麹町邸と替地とあります。
文政6年(1823年)に焼失するまで紀州藩上屋敷でしたが、その後再建されず、嘉永3年(1850年)尾張屋板の切絵図によると紀州藩中屋敷となっています。
屋敷の北西部は現在の千代田区立清水谷公園になっていますが、屋敷地から清水が湧き出ていたことから「清水谷」とネーミングされました。清水は枯れていますが復元された井戸が設置されています。  (「紀州藩江戸屋敷 – 和歌山社会経済研究所 | レポート」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡江戸〔庄〕図(出版年月日・[寛永9(1632)年頃])[絵図四つ切右上・現在の吹上御所付近に「紀伊大納言様(徳川頼宣)」と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸大絵図(出版年月日・寛文1O(1670)刊」(絵図上端中央付近に「尾張中将殿」(徳川光友)、「イ井カモン」(井伊直澄)、「紀伊中納言殿」(徳川光貞)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」(コマ番号44/87「延宝元(1673)年-元禄三(1690)年之形」(徳川光貞、井伊直興、徳川光友)、45/87「元禄四(1691)年以後之方」(徳川光貞、井伊直興、徳川光友)、46/87「元禄十年(1697)以後之方」(徳川綱教、井伊直興、徳川綱誠)、47/87「正徳五(1715)年以後之方」(徳川宗直、井伊直惟、徳川継友)、48/87「文化五(1808)年当時之形」(徳川治宝、井伊直中、徳川斉朝)、50/87「天保九(1838)年之方」(徳川治宝、井伊直亮、徳川斉温)、52/87「文久元(1861)年当時之形」(徳川茂承、井伊直憲、徳川慶勝)の絵図に「紀伊殿」「井伊掃部頭」「尾張殿」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850)」[図会左下・紀伊殿(徳川慶福=徳川14代将軍家茂)が紀州徳川家上屋敷です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(コマ番号2/3・絵図左に「紀伊殿」(徳川茂承)、「井伊掃部頭」(井伊直憲)、「尾張殿」(徳川慶勝)が描かれています。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区紀尾井町及赤坂区田町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切左上・紀尾井町に北白川邸が描かれています。)

清水谷公園
[清水谷公園のある紀尾井町は町名の由来からわかるように江戸時代、紀伊、尾張井伊のそれぞれの屋敷があった場所である。隣接するグランドプリンスホテル赤坂は江戸時代まで紀州徳川家の上屋敷があり、清水谷公園付近で隣の井伊家の屋敷と接していた。井伊家との境目付近が谷だったことと、井伊家との境目付近の紀州徳川家の屋敷から清水が沸き出ていたことから、付近は「清水谷」と呼ばれた(ただし現在は清水は涸れて、人工的に復元したものが公園内にある)。その後の明治11年(1878年)、当地付近に自宅を構えていた大久保利通が暗殺されるという事件が起きた(紀尾井坂の変)。この事件は人々に衝撃を与え、後に暗殺の現場となった当地に大久保利通哀悼碑が建てられた。哀悼碑の建立者から当公園付近が東京市に寄贈されたのを受け、都市計画で公園として整備され1890年に「清水谷公園」として開園された。現在では6.27mの高さの大久保利通哀悼碑を中心に、心字池や各種樹木があり、界隈を行きかう人々の憩いの場となっている。かつてはデモ集会の場としても知られた。特に周辺を含め八重桜が多く植わっており、シーズンには多くの人々が訪れる。2001年に公園の一部がリニューアルされた。  (wikipedia・清水谷公園より)]

[大久保利通遭難記念敷地一帯が寄贈されたのを受け、明治23年3月に開園しました。
辺り一帯は江戸時代の紀伊家、井伊家の屋敷境にあり、この境が谷であったこと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、この地名が付けられました。
公園中央の大久保公追悼碑を囲んで、 多くの樹木が配置され、緑豊かなオアシスとして利用されています。
江戸時代に水道として使われていた玉川上水石枡も展示されています。  (「清水谷公園 – 千代田区観光協会」より)]

江戸水道の石桝と木樋
[この石枡は、昭和45年(1970)の麹町通り拡幅工事の際に千代田区麹町3丁目2番(Google Maps)地先の道路で出土した玉川上水幹線(本管)の一部です。
江戸は、慶長寛永期と時を経て人口が増加すると、小石川上水や溜池上水といった旧来の上水だけでは水不足となり、新しく玉川上水が開発されます。玉川上水は、承応2年(1653)に着工され、翌3年(1654)6月に、羽村出身の清右衛門・庄内衛門兄弟によって工事は完成したといわれます。この工事によって、羽村で堰を設けて多摩川の水を取水し、武蔵野台地の勾配を利用しながら四谷大木戸(現在の新宿区四谷4丁目)に至る43kmに及ぶ水道を造りました。四谷大木戸で石樋や木樋による暗渠となり、江戸城内をはじめ、麹町・赤坂・虎ノ門などの武家地や京橋川以南の町地にも給水されていました。
発見された水道は、四谷門をわたり江戸城内に給水された玉川上水幹線で、図のように数段重ねた石枡に木樋を繋いでいます。このように当時は、所々に分水用や水質管理用、揚水用の枡などが設けられていました。この巨大な石枡は、江戸水道幹線の大きさを示すとともに、当時の都市施設の実態をしのばせてくれます。
なお、石枡とともに出土した木樋は、区立四番町歴史民俗資料館で保管されています。
平成14年3月 千代田区教育委員会  (「n060 清水谷公園 紅葉 -出かけませんか?-」より)]

「玉川上水の江戸市中における構造と機能に関する研究全文をダウンロード – 公益財団法人とうきゅう環境財団」による上水記の配管図(図左四谷門から吹上御殿まで麹町を上水が描かれています。また、紀伊殿管理の上水も描かれています。)

清水谷 – Google Map 画像リンク」、「紀伊和歌山藩 徳川家屋敷跡 – Google Map 画像リンク

カメラ画像は2014年4月で清水谷公園前は現在工事中。カメラ東方向は紀伊和歌山藩徳川家上屋敷跡に設けられた清水谷公園で、公園東側紀尾井町ビル敷地内に遺構が保存されている。

大久保公哀悼碑前のストリートビューです。

カメラ東方向が上水石桝です。

カメラ東方向・弁慶橋親柱左に紀州徳川家上屋敷跡の碑があります。(Google Maps)

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