マーカーはロシア大使館です。
関連リンク – 三春藩秋田家上屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP864・コマ番号476/553から三春藩屋敷の変遷について記載されています。「中屋敷 飯倉」がこの地になります。
三春藩秋田家
[三春藩(みはるはん)は、磐城国田村郡(旧陸奥国南部、現在の福島県田村郡三春町)に存在した藩の一つ。藩庁は三春城である。戦国時代には田村氏が本拠を置いたが、豊臣秀吉の奥州平定(奥州仕置)時に改易され、蒲生氏郷の領域となる。1627年、蒲生氏に代わって伊予国松山から加藤嘉明が移封され、会津に入ったとき、嘉明の次男・加藤明利が3万石で三春に入った。同年、領民による新領主反対の一揆がおこっている。翌年、二本松藩より松下長綱が3万石で入る。その後、常陸国宍戸より秋田氏が5万石で入る。戊辰戦争の際には他の東北諸藩同様に新政府側であったが、奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵暗殺と会津・旧幕府軍による白河城攻略による白石会議が奥羽列藩同盟に変貌した為、これに加わる。新政府軍による棚倉城落城と、仙台藩の棚倉城防衛放棄にとる背信行為、これに加え平潟の新政府軍上陸により防衛が不可能と判断され、郷士河野広中の斡旋もあり降伏する。これにより所領を安堵されて明治時代に至った。 (wikipedia-三春藩より)]
三春藩秋田家資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉より麻布白金御殿跡辺絵図 : 寛保延享(1744年-1748年)之頃」(コマ番号3/7・絵図四つ切右上に「秋田主水正」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」(コマ番号3/5・絵図中央左方向、戸澤千代鶴(新庄藩)の左に秋田安房守中屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図左上に秋田安房守中屋敷が描かれています。)
在日ロシア連邦大使館・wikipedia-photo
カメラ南南西方向が三春藩秋田家中屋敷跡(現ロシア大使館)です。