上山藩松平(藤井)家上屋敷跡

マーカーは上山藩松平(藤井)家上屋敷跡です。

関連リンク – 上山藩松平(藤井)家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP533・コマ番号310/553から上ノ山藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 麻布新堀端」がこの地になります。

上山藩松平(藤井)家
[神山藩は、元禄10年(1697年)9月15日、備中庭瀬藩から松平信通が3万石で入り、ようやく藩主家が安定する。しかし小藩にありがちの財政難が延享年間から発生し、百姓一揆も頻発した。延享4年(1747年)には五巴徒党一揆、明和8年(1771年)には逃散一揆、天保5年(1834年)には徳政一揆が起こって、合計8名が処刑されている。文化6年(1809年)には藩校・天輔館(後に明新館)が設立された。
幕末になると幕府に重用され、大坂警備や江戸市中警備に出兵した。慶応2年には洋式兵学を取り入れた。慶応3年12月、江戸市中で浪人による放火が相次ぎ、その主犯が薩摩藩であることを突き止め、時の藩主松平信庸は自ら兵を率いて薩摩藩邸を攻撃した。これに出羽庄内藩武蔵岩槻藩越前鯖江藩が同行した(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が始まる奥羽越列藩同盟に参加、同盟方針に従って総督・山村求馬率いる洋式軍隊を出羽久保田藩に派兵する。山村求馬は出羽新庄藩の裏切りにより戦死、その後は庄内藩と行動をともにして久保田城を包囲した。また、飛び地であった七日市が長岡に近かったため北越戦争に巻き込まれ、別働隊を長岡に派遣した。米沢藩が新政府に恭順すると、背後からの攻撃を恐れて軍を引き上げ降伏恭順し、版籍奉還を迎えた。
当時の軍楽隊であった上山藩鼓笛楽隊が上山藩鼓笛楽保存会として現存しており、当時の洋式軍隊と軍楽隊の保存会が存在する数少ない地域である。  (wikipedia・上山藩より)]

[上山藩8代藩主松平信宝は、天保の大飢饉では飛び地領から米を輸送し領民の救済に充てた。天保11年(1840年)に天輔館に代わる新たな藩校を設置し、名を明新館とした(現在の山形県立上山明新館高校の起源)。安政6年(1859年)、領内に社倉を設置して農民に米穀の備蓄をさせた。  (wikipedia・松平信宝_(上山藩主)より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」[絵図上中央左に松平中務少輔(松平信宝)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」[コマ番号3/5・絵図四つ切右上・一之橋右下に松平中務少輔(松平信宝)と描かれています。]

カメラ位置は一の橋交差点で、カメラ西南西方向に上山藩松平(藤井)家上屋敷がありました。