マーカーは上田端八幡神社です。
上田端八幡神社
[現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の住民の 鎮守で大龍寺が別当寺を勤め、もう一つの八幡神社は、東覚寺が別当となっていました。
祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)で、境内には稲荷神社・大山祗(おおやまつみ)神社および白鬚神社がまつられています。このうち白鬚神社は、現在の田端中学校の敷地内にあった神社で、その付近の畑の中には、争いの杉と呼ばれる神木がありました。木の高さは二丈五尺(約8.3m)余、幹の太さは九尺(約3m)位、遠くから望むと松の木にも見えたといわれます。そこで、奥州平泉の高館(たかだち)に源義経を討伐に向かう途中の畠山重忠が、これを見て家来と松の木か杉の木かと争ったという伝承から争いの杉という名称で呼ばれるようになったといわれています。また、この杉の木は田端の三角(三岳)屋敷という場所にあり、太田道灌の争いの杉であるとの室町時代の伝承を述べる記録もあります。
このように境内の白鬚神社は、鎌倉時代から室町時代の貴重な伝承を伝えており、この伝承は村の鎮守の八幡神社と共に、北区の中世社会を考えるうえで重要な資料といえます。 (「文化財説明板村の鎮守の八幡神社|東京都北区」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [35]貮拾壹亨」(コマ番号6/7・地図中央上方向に八幡宮と描かれています。)
カメラ北東方向が上田端八幡神社参道です。
上田端八幡神社拝殿前のカメラです。