マーカーは愛染院です。
愛染院
[練月山 愛染院 観音寺(れんげつさん あいぜんいん かんのんじ)は、東京都練馬区春日町四丁目にある真言宗豊山派の寺院。愛染明王を単独の本尊とする珍しい寺院であり、また「観音寺」の名称にもかかわらず観世音菩薩が本尊として迎えられた記録がないという不思議な寺名の寺院でもある。江戸時代ころの造形とされる本尊愛染明王像は秘仏であり、像の厨子は正月三が日のみ開帳されるが、本堂の正扉が開かれて外部に一般公開されるのは元旦午前0時から新年法要が行われている数時間のみであり、また本堂内での一般公開も行っていないため、拝観することは極めて困難。
山門・wikipedia-photo
愛染院の鐘楼(1701年(元禄14年)鋳造・wikipedia-photo
本堂・wikipedia-photo
(wikipedia・愛染院_(練馬区)より)]
[練馬区教育委員会掲示による愛染院の縁起
愛染院は、練月山愛染院観音寺といい、真言宗豊山派(豊島八十八ヶ所第26番札所)の寺院で、本尊は愛染明王です。 縁起によると永享9年(1437)能円坊尊岳が尾崎の地(現在の春日小学校付近)に開いた寺で、寛永年間(1624-1644)に権大僧都尊智によって現在地に移され、中興したといわれます。江戸時代には十二石余の朱印地がありました。慶安2年(1649)の徳川家光朱印状をはじめとして、徳川将軍家が愛染院の寺領と同寺管理の若宮八幡(現高松八幡神社)の社領八石を安堵した朱印状が残されています。また寛政年間(1789-1801)の火災により、元禄10年(1697)の山門と元禄14年(1701)の梵鐘を残して建造物はことごとく焼失したといいます。明治の廃仏毀釈の際、末寺の成就院(練馬区向山)、高松寺(練馬区高松)、養福寺・泉蔵院(練馬区田柄)の四ヶ寺を当寺に合併しました。境内には高松寺合併について記した明治25年(1892)の宝篋印塔があります。この他、弘法大師座像(木像)などの仏像が所蔵されており、境内には、西山稲荷祠や六地蔵(元文4年・1739)をはじめ弘法大師一千年供養塔、敷石供養碑など数多くの石造物があります。昭和55年11月、3年の歳月を費やし本堂・大師堂・表書院・鐘楼・稲荷社・山門など諸堂伽藍が完成し、入仏落慶法要が盛大に挙行されました。(練馬区教育委員会掲示より) (「猫のあしあと – 愛染院」より)]
愛染院の梵鐘 (あいぜんいんのぼんしょう)
[高さ134センチメートル、口径77センチメートル。上部の周囲に庇状の突起、下部には唐草文様、蓮華座と光明真言などの月輪が鋳出されています。江戸時代の元禄14年(1701年)に木村将監安継(きむらしょうげんやすつぐ)により造られたことが記されており、区内では古い梵鐘です。画像リンク
平成17年度区登録 (「練馬区ホームページ – 愛染院の梵鐘 (あいぜんいんのぼんしょう)」より)]
愛染院文書(あいぜんいんもんじょ)〈非公開〉
[徳川将軍家が愛染院に発給した朱印状など合計67点の文書群です。
朱印状は、愛染院(新義真言宗、仁和寺末、真福寺触下)の寺領12石1斗と同寺が管理していた若宮八幡(現八幡神社、高松1丁目16番)の社領8石を将軍家が安堵したものです。慶安2年(1649年)の徳川家光朱印状(画像リンク)をはじめ、徳川綱吉(貞享2年・1685年・画像リンク)、徳川吉宗(享保3年・1718年・画像リンク)、徳川家重(延享4年・1747年)、徳川家治(宝暦12年・1762年)、徳川家斉(天明8年・1788年)、徳川家慶(天保10年・1839年)、徳川家定(安政2年・1855年)、徳川家茂(万延元年・1860年)の朱印状9点(画像リンク)が、一括されて漆塗りの御朱印箱(画像リンク)に納められています。
また、天保9年(1838年)「御朱印御改ニ付諸事留記(ごしゅいんおんあらためにつきしょじとめき)」(画像リンク)など朱印状が下賜される際の手続きに関わる文書55点が残ります。その他、天保5年(1834年)に智積院・小池坊(こいけぼう)が愛染院に常法談所であることを許可した免状など3点の文書が伝わります。
徳川将軍家の寺社領安堵の朱印状とその関係文書などがまとまって残る文書群です。
平成19年度区登録・平成21年度区指定 (「練馬区ホームページ – 愛染院文書 (あいぜんいんもんじょ)」より)]
カメラ北西方向が愛染院総門です。総門先左に練馬大根碑があります。
カメラ北方向が愛染院山門です。
愛染院本堂前のカメラです。