マーカーはカメラ位置です。
関連リンク – 大和郡山藩柳沢家上屋敷跡(東京府庁跡・樋口一葉生誕の地)、郡山藩柳沢家中屋敷跡、郡山藩柳沢家下屋敷跡(六義園)、柳沢伯爵邸跡
大手町二丁目([現]千代田区大手町一―二丁目)
[明治5年(1872)に成立。神田橋から南に延びる道の東側、道三(どうさん)町・銭瓶(ぜにかめ)町の北を占め、北から東にかけて外堀が巡る。南東角に常盤(ときわ)橋があり、同橋と神田橋で神田・日本橋方面へ通じる。古くは平川(ひらかわ)村の内で、江戸城築城に伴い武家地となり、西半は神田橋御門内(かんだばしごもんない)、東半は常盤橋御門内(ときわばしごもんない)と通称された。慶長江戸絵図によれば関東郡代伊奈忠次など徳川家譜代家臣のほか、外様大名藤堂高虎(伊勢国津藩)・生駒一正(讃岐国高松藩)の屋敷もみえる。明暦3年(1657)の大火で一帯が焼失した後、松平綱吉(のちの徳川綱吉)が神田橋御門内に上屋敷(神田御殿)を拝領した。元禄年中(1688~1704)に柳沢吉保(甲斐国甲府藩)が神田御殿北側に上屋敷を拝領、同16年には常盤橋内までの外堀沿いの地を道敷・馬場とも囲い込み、正徳元年(1711)にはかつての神田御殿の西半を取込んで拡張するがまもなく替地となり、同3年に東部を越前国福井藩松平家、同五年には西部の北側を出羽国鶴岡藩酒井家、南側を越後国高田藩榊原家がそれぞれ上屋敷として拝領する。寛保元年(1741)榊原家に代わって豊前国小倉藩小笠原家がこの地に入るが、そのほかは変りなく幕末に至る(沿革図書など)。明治維新後福井藩松平邸は存続、津藩藤堂邸・薩摩鹿児島藩島津邸が新たに割られ、後には文部省・教部省・大蔵省紙幣寮用地・御雇外国人居留地となった(明治四年東京大絵図・同九年明治東京全図)。 (「大手町二丁目 | 仲介手数料最大無料の東京賃貸事情」より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸大絵図絵入[出版年月日・延宝4(1676)年]」(コマ番号4/5・絵図左上、神田橋左方向に「館林宰相」と描かれた場所が「神田御殿」です。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸図鑑綱目 坤[出版年月日・元禄2(1689)]」(絵図中央・「カンダハシ」左に「柳沢デハ上屋敷」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書 一 」(コマ番号17/130[元禄(1688年-1704年)年中之形]に神田橋御門左下に柳沢出羽守その左に神田殿が描かれている。32/130[元禄14年(1701年)之形]右ページに柳沢出羽守が描かれています。)
「元禄6年[1693]の「[江戸図]」・「ru11_01193_p0010.jpg」(カンタハシの左下に柳沢出羽守と記述されている。また、拝領地の左側の神田御殿跡地は白地になっている。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸大絵図元禄十二(1699)年」(コマ番号4/5・絵図四つ切左上の「カンダバシ」「トキワバシ 大ハシトモ云」の間に「神田御殿」「柳沢デワ 柳沢出羽守」と記述されています。)
「江戸大絵図 / 遠近道印 作」・「請求記号:ル11_00623 33カット – 17」(カンタハシの左下に柳沢出羽守、その左に神田御殿と記述されている。)、「請求記号:ル11_00623 33カット – 18」(絵図上中央付近・霊雁島上端に「柳沢出羽」(※中屋敷)と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大繪圖(出版年月日・正徳5 [1715])」(コマ番号4/5・絵図四つ切左上、「カンダハシ」左に「松平甲斐守」(柳沢吉里)上屋敷が描かれています。柳沢吉保上屋敷を継続拝領。)
カメラ位置は神田橋南詰めで、カメラ西南西方向・首都高速から大手町二丁目までが松平綱吉(のちの徳川綱吉)の上屋敷神田御殿跡で、その後柳沢吉保が神田御殿北側に上屋敷を拝領し、後にカメラ南東方向常盤橋内までの外堀沿いまで拝領しました。
柳沢吉保
[柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす)は、江戸時代前期の江戸幕府側用人・譜代大名。武蔵国川越藩主・甲斐国甲府藩藩主。第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。
通称は十三郎、のち弥太郎。名は房安、佳忠、信本と改名する。延宝3年(1675年)家督相続に保明(やすあき)と改名した。官位は従四位下・左近衛権少将・出羽守(でわのかみ)、後に美濃守(みののかみ)。
柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し、甲斐北西部の在郷武士団である武川衆に属した。武田氏の滅亡後武田遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれ、柳沢氏は吉保の祖父にあたる柳沢信俊が家康に仕官した。柳沢氏は土屋氏と並んで、武田遺臣から近世大名化した一族として知られる。
万治元年(1658年)12月8日、上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれる。母は側室の佐瀬氏。長男ではあったが父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は姉の夫(父・安忠の娘婿)である柳沢信花が養嗣子となって継いだ。寛文4年(1664年)には館林藩主徳川綱吉に初めて謁見する。寛文12年(1672年)に甲斐国恵林寺において行われた武田信玄百周忌の法要においては、父安忠とともに奉加帳に名を連ねている。翌寛文13年には元服する。
延宝3年(1675年)7月12日には父安忠の致仕に際して家督を相続し小姓組番衆となり、同年12月18日には旗本曽雌盛定の娘曽雌定子を室に迎える。延宝5年(1677年)には曽雌家の菩提寺である龍興寺の竺道祖梵に禅を学んでいる。延宝8年(1680年)、館林藩主の綱吉が実兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると館林家臣である保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられる。吉保は綱吉の学問上の弟子となり、市ヶ谷から愛宕下に居を移す。天和元年(1681年)には生母了本院を江戸へ引き取っており、この際に侍女としてつき従っていた飯塚染子は貞享2年(1685年)頃に吉保の側室となる。綱吉の寵愛により頻繁に加増され、貞享2年(1685年)12月10日、従五位下出羽守に叙任する。元禄元年(1688年)6月10日には西の丸下から一橋内の屋敷に移る。同年11月12日には小納戸上席より将軍親政のために新設された側用人に就任。禄高も1万2000石とされて大名に昇る。領地は上総国佐貫藩。廃城となっていた佐貫城に封じられる。翌元禄2年には一橋内から神田橋内に居を移し、霊岸島にも中屋敷を拝領する。元禄3年(1690年)3月26日には2万石を加増され、同年12月25日には従四位下に昇叙する。出羽守如元。元禄4年(1691年)2月3日には常盤橋内に屋敷を拝領し、同年3月22日には将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う。以来、綱吉は58回に及ぶ吉保邸への御成を行なっている。元禄5年(1692年)11月14日には3万石を加増される。元禄7年(1694年)1月7日には石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる。同年12月9日には老中格と侍従を兼帯。同11年(1698年)7月21日、大老が任ぜられる左近衛権少将に転任する。出羽守如元。元禄7年(1694年)1月7日には一万石を加増され、川越城を拝領する。同年3月11日には常盤橋内の隣地に屋敷を拝領する。翌元禄8年4月21日には駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領し、後にこれが六義園となる。元禄14年(1701年)11月26日には柳沢吉里とともに将軍綱吉から松平姓および吉の一字を与えられ、松平吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任した。翌元禄15年7月12日には吉保邸が火災に遭い家財を焼失し、吉保自身は家臣薮田重守邸に避難する。翌元禄16年8月26日には幕府奥絵師狩野常信に肖像を描かせ、自賛を記している。翌宝永元年(1704年)12月21日には綱吉の後継に甲府徳川家の徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)・甲府城と駿河国内に所領を与えられ、15万石の藩主となる。翌宝永2年3月12には駿河の所領を返上し、甲斐国三郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられる。同年4月10日には甲斐恵林寺において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なっている。
さらに側室に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係から朝廷にも影響力を持ち、元禄15年(1702年)に将軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位を与えられたのも、吉保が関白近衛基煕など朝廷重臣達へ根回しをしておいたおかげであった。宝永2年(1705年)、家門に列する。宝永3年(1706年)1月11日には大老格に上り詰めた。
しかし宝永6年2月19日(1709年3月29日)、権勢の後ろ盾とも言うべき綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣とその儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。同年6月3日(7月9日)、自ら幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。
隠居後は江戸本駒込(東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、綱吉が度々訪れた六義園(りくぎえん)の造営などを行った。正徳4年(1714年)11月2日、死去。享年57。
法名は永慶寺保山元養。墓所は奈良県大和郡山市永慶寺町の龍華山永慶寺、また、山梨県甲州市塩山小屋敷の乾徳山恵林寺(武田信玄の墓の隣)にある。 (wikipedia・柳沢吉保より)]