山谷堀跡

マーカーはカメラ位置です。

山谷堀跡
[山谷堀は、江戸にたくさんあった堀を代表するもので、堀といえば、山谷堀を指したほどであった。堀の両岸には多くの船宿茶屋があった。かつては「郭(くるわ)」と呼ばれる虚構と華麗が織りなす別世界があった。今の日本堤に「新吉原」が出来たのは、明暦2年(1656)。新吉原は浅草寺裏の田圃の中に出来たので、遊客は駕籠か船で通った。猪牙船といわれる小さな船で柳橋_(神田川)から隅田川を上り、今戸の山谷堀まで来て日本堤迄出るのだ。今ではこの堀は埋め立てられて公園になっているが、橋は土手通りと並行して今も残っている。隅田川寄り下流から今戸橋、聖天橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗い橋、地方新橋、地方橋、日本堤橋。  (「山谷堀」より)]

[「堀」といえば山谷堀を指すぐらいに江戸時代には代表的な堀であった。北区王子権現辺から流れる石神井川田端日暮里根岸を経て今の荒川区台東区の区境を形成し一般には音無川と呼ばれた。この水が三ノ輪から土手通りに落ちる辺りから山谷堀と呼ばれる。堀は今戸から三ノ輪まで続きこの土手(土手八丁)を日本堤という。  (「第163話落語「今戸の狐」(いまどのきつね) – 落語の舞台を歩く」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [45]貮拾貮下」(コマ番号10・地図左に山谷堀が描かれ、山谷掘下に今戸橋、その上に新鳥越橋が描かれています。コマ番号7・地図中央、日本堤に沿って山谷堀が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション - 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「山谷堀今戸橋慶養寺」(17-32)
山谷堀今戸橋慶養寺(拡大図)

[図会左ページに山谷堀と今戸橋、右ページに慶養寺が描かれ、図会から外れて左に本龍院(待乳山聖天)があります。]
[待乳山は現在の隅田公園内にある小さい丘で、東に筑波山、西に富士山をのぞむことができた。本所・深川などが埋立てられる以前はこの山を入津の目標にしていたといわれ、付近の土を採って日本堤を築いたという言伝えもある。山上には聖天しょうでん宮が祀られ、商店・花柳界の信仰が厚かった。山の下にある今戸橋は山谷堀の最下流にかかっており、現在の浅草7丁目と今戸1丁目を結ぶ。  (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「待乳山聖天宮・今戸橋」より)]

絵本江戸土産 – 日本堤山谷(拡大図)

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](真乳山山谷堀夜景・wikipedia-photo)

歌川広重・「江戸名所」より 吉原の日本堤(吉原日本堤)(ボストン美術館)

山谷堀公園 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は新鳥越橋跡で、カメラ北西、南東方向に山谷堀があった。

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