マーカーは海賊橋(海運橋)跡です。
海賊橋(海運橋)跡関連リンク – 「楓川、越中橋(現久安橋)」
海賊橋(海運橋)
[海運橋 – 江戸時代初期は髙橋、後に海賊橋・将監橋と称された。東詰に海賊奉行向井将監忠勝屋敷が存在したことによる。明治元年(1868年)「開運」と掛けて海運橋と改称された。海運橋は橋柱のみ保存されている。 (wikipedia・楓川より)]
[海運橋親柱
所在地 中央区日本橋一ー二十先
日本橋兜町三先
海運橋は、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監(しょうげん)忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は江戸幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、明治8年に、長さ8間(約15メートル)、幅6間(約11メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
石橋は、関東大震災で破損し、昭和2年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和37年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。 平成6年3月 中央区教育委員会]
「武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション(1624-1643・寛永年間」[絵図中央下に十本の船入堀が描かれ、日本橋と京橋の間の川が紅葉川で、紅葉川が接続する川が楓川です。楓川の右の橋が海賊橋(海運橋)です。]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクショ – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図右中央付近楓川の左端の橋が海賊橋(海運橋)です。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」[絵図下中央付近・牧野山城守の右上の橋が海賊橋(海運橋)です。]
カメラ位置は海賊橋(現海運橋)跡西詰で、カメラ北東方向に海運橋親柱が記念として設置されています。