新徴組屯所跡(小笠原加賀守屋敷跡)

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新徴組屯所跡 東京都墨田区石原4丁目
[文久3年(1863年)3月から慶応元年(1865年)6月までの間、飯田町の新徴組屯所と共に新徴組の拠点となった場所。京都より戻った浪士組は、改めて庄内藩預かりの新徴組となり、当地(本所三笠町)の小笠原加賀守屋敷と飯田町の田沼玄蕃頭屋敷[新徴組屯所跡(田沼玄蕃頭屋敷跡)]に分宿した。  (「幕末関連史跡補完計画:史跡便覧:東京都墨田区」より)]

「京都を発した浪士組は、帰りも中山道を通り、3月28日に江戸に帰還した。 江戸では 浪士組上京後に応募して江戸にやって来た浪士 約160名を、本所三笠町の 旗本小笠原加賀守 五千石の屋敷に収容していた。 ここは昔から夜鷹(よたか) 小笠原と呼ばれ 空屋敷になっていた。  (「ものすごい先生たちー77 ( 清河八郎 ・横浜焼き討ち計画 …」より)]

[文久3年(1863年)改正尾張屋版絵図には、小笠原加賀守が新徴組御役屋敷となっていて、九段下の蕃書調所跡(蕃書調所は文久3年、護持院ヶ原に改修移転し開成所となる。)に小笠原加賀守と記述されています。その当時の武鑑を検索すると、「武鑑 N005」に若年寄り 田沼玄蕃頭 一万石と共に御側衆として小笠原加賀守が記述されていますので、九段下に屋敷を拝領したものと思います。また、「全国各藩の明治初期の軍事力」の「在京高家・旗本の兵員(明治元年5月、宮中日記)」に「小笠原加賀守 5000石 銃隊40人」との記述がありますので。この当時幕閣で活躍していたのがうかがえます。また、ネットの「三郎輔誕生から浦賀奉行所がなくなる慶応四年五月までの浦賀 …」に「浦賀奉行・小笠原加賀守長穀(天保13年5月10日~同年12月24日)」(中奥御小姓組から浦賀奉行着任)の記述があり、「海防前線記」に「天保13年(1842年)12月まで浦賀奉行は坪内左京と小笠原加賀守の二員制であったが、下田奉行所が再び設けられ、小笠原加賀守が下田奉行(1842~1844)に任ぜられ、浦賀奉行は再び一員制となった。」と記述され、「下岡蓮杖関連年表」にも同様の記述が見えます。]

小笠原加賀守屋敷資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一年(1840)八月ノ形」(絵図四つ切左下方向の小笠原加賀守が本所における新徴組屯所となる。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図(嘉永五・1852年)」(絵図中央左下方向の小笠原加賀守が本所における新徴組屯所となる。)

カメラ北東方向に新徴組屯所がありました。

新徴組
[新徴組(しんちょうぐみ)は、江戸時代後期の文久2年(1862年)に結成された、江戸幕府による警備組織である。同年2月に江戸で浪士組結成募集が行われ、京都上洛した後に清河八郎に率いられて江戸に戻るが、4月に清河が暗殺されると幕府により新徴組として再組織され、主に江戸市中の警戒、海防警備に従事する。屯所は江戸の本所東京都墨田区・小笠原加賀守屋敷)に設置された。取締責任者は高橋泥舟山岡鉄太郎。1864年(元治元年)に庄内藩酒井家の御預かりとなる。
清河の思惑は浪士組を帝(みかど)の尖兵として倒幕尊皇攘夷実現することであった。勅許(ちょっきょ)を得た清河は浪士を率いて江戸へと引き返す。幕府内の小栗上野介は、江戸に呼び戻された浪士組と八郎の評判を落とす為に、ニセ浪士組を放って市中で略奪を行わせた、清河は此を見抜き、隊士に外出を禁じて偽物を炙り出し捕まえると、町奉行所には引き渡さず、河原に晒し首にした。高札には幕府の策謀が記され、幕府の面目は大いに損なわれた。文久3年4月13日、幕府は幕臣佐々木只三郎に命じ・窪田泉太郎ほか4名によって、清河を麻布一ノ橋にて暗殺し浪士組の動きを封る。文久3年4月15日、正式に新徴組と命名、再組織され、主に江戸市中の警戒、海防警備に従事。 清河の同志達も次々と捕縛されたため浪士組は組織目的を失う。当初、若年寄支配であったが、内部に山岡鉄太郎、高橋泥舟等の清河シンパを抱えていた為に、 却って尊王・佐幕のどっちつかずに。活動の方向性を見失い通行人に乱暴を働いたり、 商家に押し入ったりと評判も悪くなる。高橋泥舟(高橋精一)と山岡鉄太郎(山岡鉄舟)は江戸城に呼び出され、不祥事の責任として、御役御免になり謹慎閉居になった。文久3年(1863年)9月4日、、飯田町黐(もちのき)坂下に屯所(新徴組屯所跡 千代田区飯田橋1丁目)を移す。元治元年(1864)五月、新徴組は江戸市中警備を受け持つ庄内藩酒井家に預けられた。戊辰戦争で新徴組は庄内藩士と共に、江戸を引き上げ、庄内で新政府軍相手に奮戦することとなった。庄内藩は新政府軍相手に連戦連勝の奮戦をするも、周りの藩が次々と新政府軍に破れていき、庄内藩も結局最後は無敗のまま降伏という形を取らざるを得なかった。新徴組は明治3(1870)年には鶴岡・大宝寺・道形に137戸の屋敷を構えていた。庄内藩は戊辰戦争の処分で17万石から12万石に減封され 藩を挙げての開墾事業に取り組んでおり、隊士達は否応無く開墾事業に従事する事になった。関東出身の浪士が多い新徴組には東北の開拓は厳しく、脱走者が相次いだ。脱走者に対して庄内藩は切腹・討伐等の厳しい処置を以って臨み、10年後の再調査では新徴組出身者は11名であった。  (wikipedia・新徴組より)]

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