江戸六阿弥陀

「Google Earth で街並散歩(日本編)」で取り上げた、江戸六阿弥陀についてまとめてみました。

下地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックすると、上地図がそのマーカーポイントにズームし、下地図にマーカーポイントの吹き出しが表示されます。吹き出しにはマーカーポイントの案内ページのリンクが設定されています。

      
    今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

       
    江戸六阿弥陀参詣道と周辺の路傍の石仏

    江戸六阿弥陀
    [江戸六阿弥陀は、行基菩薩が一夜の内に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げた阿弥陀仏だといい、阿弥陀仏作成を依頼した長者が六ヶ所に寺を建立、六体の阿弥陀仏を一体ずつ安置したと言われています。六阿弥陀と称していますが、木余り・木残りの2仏を加えた8阿弥陀を巡礼、江戸時代中期から大流行した巡礼です。
    「江戸・東京札所事典」による江戸六阿弥陀の由緒
    六阿弥陀伝記延宝三年(一六七五)には六ケ寺の寺名なし。江戸惣鹿ノ子元禄三年(一六九〇)末木観音は享保十一年(一七二六)木余り如来は天明二年(一七八一)が初出。六阿弥陀には、江戸という冠称は当初はなかったが後に他と区別するためにつけられる。(「江戸・東京札所事典」より)  (「江戸六阿弥陀の案内 – 猫の足あと」より。)]

    六阿弥陀伝説
    [昔、足立庄司宮城宰相という名家の娘・足立姫が豊島左衛門尉清光という豪家に嫁ぎました。しかし、姫は引出物が粗末とそしりを受け、里帰りの際に12人の侍女たちとともに、荒川(今の隅田川)に身を投げて命を絶ってしまいました。侍女たちの遺体はすぐ見つかりましたが、姫の遺骸はついに見つかりませんでした。
    父・宮城宰相は、悲しみのあまり、諸国霊場巡りに出発しました。紀伊国熊野権現で1本の霊木を得て、それを熊野灘へ流すと、やがて国元の熊野木という所に流れ着きました。折りしも諸国行脚中の行基が通りかかり、宮城宰相が霊木のことを話すと、行基は一夜で六体の阿弥陀仏を彫り上げました。さらに、余り木からもう一体造り、それを姫の遺影としました。
    これらの阿弥陀仏は後に、六阿弥陀として近隣の寺院にまつられ、女人成仏の阿弥陀としてあがめられたといいます。  (「六阿弥陀伝説 – 足立区ホームページ」より。)]

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