玉川上水(牟礼村分水口)

マーカーは玉川上水(牟礼村分水口)です。

玉川上水(牟礼村分水口)
[牟礼用水
牟礼用水(牟礼分水とも称する)は玉川上水に架かるほたる橋の下流で取水され、牟礼村の田園に水を供給するために開削された用水路である。延享2年(1745)に許可がおりて、その後、開削された。玉川上水の数ある分水の多くは複数の村に水を供給していたが、1つの村のために造られた用水路として異色の存在でもある。
現在の三鷹市牟礼2~4丁目付近には牟礼田んぼという田園地帯が広がっており、玉川上水から導水した水により、良質の米がとれたそうだ。
昭和34年(1959)に用水は埋め立てられ、その後、住宅や三鷹台団地、小学校の敷地へと転用されている。なお、玉川上水から取水され、牟礼用水に水が流れる期間は5月から9月までの約5ケ月間のみであったらしい。
牟礼用水の分水堰は井の頭公園内のほたる橋の下流約20メートルほどの地点に、その跡を見ることができる。周囲は木々に覆われているが、上水沿いの歩行者道から木々の間を覗くと、石積みの分水口を確認できる。  (「牟礼用水 – 川のプロムナード」より)]

[水無川のお話し
現在は自転車歩行車道に整備されたこの川は、古来より水無川と呼ばれ、旧烏山村と旧給田村の境を概ね南東方向に流れ下り、旧粕谷村を経て旧船橋村に入ると、現在の千歳清掃工場付近で高源院(北烏山四丁目)鴨池等を水源とする本来の烏山川(本流)に合流していました。
この区間は、河川法上の名称は烏山川ですが、もともと烏山川(本流)とは別の支川であり、今も地元では水無川と愛称されています。
昔、水無川沿いに帯状に広がっていた水田は、水無田圃と呼ばれ、江戸時代延宝2年(1674年)及び元禄10年(1697年)調整の武蔵国烏山村検地帳に北水無及び南水無と記載され、現在も橋やバス停の名称に水無の文字を留めています。
名の由来は、旧烏山村字出井向(現北烏山八丁目付近)や旧北野村(現三鷹市北野)の湧水と天水を水源としていたので、雨期以外は流れが細り、いつしか「水(の)無(い)川」と呼ばれるようになったようです。
後に延享2年(1745年)、玉川上水(1654年開削)に牟礼分水が開設され、牟礼や北野の水田を灌漑した後、水無川に流れ落ちるようになりましたが、分水は稲作期のみの通水で安定した水源ではありませんでした。
時は下り、昭和39年河川法改正の際、水無川は「2級河川烏山川」(世田谷区北烏山~池尻)の一部として公示されました。この時より、河川行政上は水無川の名が消えて烏山川と公称される一方、合流点以北の本来の烏山川(本流)は、無名の普通河川になるという捻れが生じることになりました。
昭和50年代以降、下水道整備が急速に進捗する中で、水無川の姿は暗渠へと大きく変貌し、かつて水無川という名の川であったことを知らない人も増えてきました。
平成19年5月、1900余筆の署名を添えた水無川の名の復活を求める要望書が、烏山を愛する郷土史研究者有志の方々から東京都及び世田谷区に提出されました。
これを受け、広く水無川の名とその歴史を後世に伝えるため、この看板を設置することにしたものです。
平成22年3月
烏山給田文化財保存会 世田谷区土木事業担当部  (「(説明)水無川のお話し – 武蔵野・多摩 MTB散歩」より)]

玉川上水(牟礼村分水口)図(「作場橋」右方向、「稲荷バシ」と「大橋」の間上側に、「多摩郡同村地先無禮分水口田用水」と記述され分水口が描かれています。スクロールしてご覧ください。「東京都立中央図書館 – 玉川上水絵図 」より。)

    
国立国会図書館デジタルコレクション – 東京府北多摩郡三鷹村土地宝典」[コマ番号67/115に玉川用水とそこから分水する牟礼村分水が、コマ番号70,73,78,79,80/115で牟礼村分水路(三本の分派)が描かれていますが、地図表示方位がまちまちなので方位記号及び接点記号を勘案してみると良いと思います。コマ番号67/115の玉川用水と牟礼村分水に挟まれた部分と、コマ番号63/115の原屋敷の部分が現在の井の頭公園・小鳥の森、競技場、遊びの広場になると思います。また字名の位置確認は、コマ番号7/115に全界図で出来ます。]

牟礼分水取水口・分水堰 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向に牟礼村分水の堰が見えます。