マーカーは水戸橋 跡地です。
「江戸御場絵図」[絵図は東西方向を軸に描かれていますので、絵図を回転して南北を軸にすると見やすくなります、南北軸にした絵図で、絵図中央左端・綾瀬川に「水戸ハシ」が描かれています。]
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年の地図で、「小菅」左、綾瀬川に水戸橋が描かれています。
[水戸橋 跡地
【水戸橋・橋台の石組・綾瀬川】
ここに積まれた石組は、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。
水戸橋が本格的な橋として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛永年間(1624~1644)と考えられています。
水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館蔵)に、寛永年間に内匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで堀替えた記録があります。
【橋名:みとはしの由来】
地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光國)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした狸でした。子狸が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。その事実を知った光國は、後の世まで平穏となるようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。
また、水戸橋下流の正覚寺(Google Maps)には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄10年(1697)の銘があります。
【水戸佐倉道】
前方に延びる道は、東海道など五街道に付属する水戸佐倉道です。この街道は、日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉へ向かう佐倉街道に分かれました。これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。
享保10年(1725)八代将軍徳川吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉県松戸市)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉道を通行した記録が残されています。
監修 葛飾区小菅西自治会 葛飾区 (「ocr-generated 水戸橋 跡地 – Monumento(モニュメント)」より)]
カメラ南方向に水戸橋 跡地(橋台石組み)及び案内板があります。
水戸橋 跡地(橋台石組み)案内板(Google Map 画像)