マーカーは挙母藩内藤家上屋敷跡です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP775・コマ番号431/553から挙母藩屋敷の変遷について記載されています。P777・コマ番号432/553「上屋敷 三田四国町」がこの地になります。
挙母藩内藤家
[挙母藩(ころもはん)は、三河国の北西部、現在の愛知県豊田市中心部を治めた2万石の譜代大名の小藩。藩庁は挙母城(別名七州城)。
寛延2年(1749年)、上野安中藩より内藤政苗が挙母へ領地替えとなる。以後、明治維新までの約120年間にわたり内藤氏が挙母の地を支配することになる。内藤氏は本多氏から受け継いだ挙母1万石の他にも、遠江国と美作国に1万石を領し、都合2万石の大名となった。入部後、幕府より4,000両が与えられ、それまでの陣屋から挙母城築城の計画が進められた。しかし築城の計画は一揆や洪水、政争などの要因で遅々と進まなかった。この移転前の城は現在、桜城と呼ばれている。
結局、第2代藩主の内藤学文は安永8年(1779年)に挙母城の移転を決意、挙母城より西方の樹木台に新しい城の築城を進めることになる。そして天明5年(1785年)に築城工事が終わり、江戸から戻った学文は新城の見分をしている。それが現在、七州城と呼ばれる城にあたる。学文はまた藩校「崇化館」を創立している。以後、挙母の城下町は旧城を中心とした下町と新城を中心とした樹木の両地域で発展し、明治維新を迎える。
第4代藩主の政成は近江彦根藩主の井伊直中の五男で、養子として迎えられた。質素倹約に励むなど藩財政の好転に尽くしたが、天候不順や矢作川の氾濫などで芳しい実績は生まれなかった。政成は文政13年(1830年)9月に実弟(井伊直中の八男)政優を養子として迎え、これに藩政を委ねて隠居したが、この縁組は実家の井伊家からの持参金目当てであり、挙母藩の借財整理に充てられたと伝わる。ちなみに大老の井伊直弼は政成や政優の弟にあたる(直中の十四男)。
天保7年(1836年)9月、現在の松平地区で大規模な百姓一揆「加茂一揆」が発生。飢饉に苦しむ農民が年貢の減免や市場価格の抑制を求めて起こした一大農民一揆で、1万人以上の農民が参加する大騒動に発展した。藩主の内藤政優は鉄砲隊を組織して矢作川の堤防で農民を撃退し、一揆を武力鎮圧した。「鴨の騒立(かものさわだち)」という別名でも知られるこの一揆は東海地方有数の規模で、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱にも影響を与えることとなった。
嘉永4年(1851年)、政優が嗣子なく死去すると、やはり井伊家から政文(政成・政優の甥)が養子として迎えられ第6代藩主となった。安政元年(1854年)、挙母地方を大地震が襲ったと記録されている。安政5年(1858年)政文が死去し、嫡男の文成が4歳で第7代藩主となった。これは内藤氏歴代藩主の中で、家督が父子相続された唯一の例である。安政6年(1859年)、洋式の軍政(英式銃陣法)が取り入れられ習練が行われた。慶応3年(1867年)には全国的に流行していた「ええじゃないか」が挙母でも起きている。
慶応4年(1868年)2月に戊辰戦争がはじまると、挙母藩は藩主が領国不在のまま新政府に対して恭順した。3月には藩主・文成が帰藩し、4月に官軍の東海道軍人馬兵食賄方として、駿府警衛のため一小隊を派遣する。6月に再度警衛に当たった。
同年7月、藩主・文成は京の御所へ参内し、勤王の意をあらためて表した。明治2年(1869年)、文成は挙母知藩事(藩知事)に就任した。 (wikipedia・挙母藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切右下・薩摩宰相殿上屋敷左上方向に内藤丹波守(内藤政優)上屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」[絵図中央右に内藤丹波守(内藤政優)と描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図」(コマ番号2/5・絵図四つ切右下、松平大隅守左下方向に「内藤丹波守」と描かれています。)
カメラ位置は港区芝5丁目13南西角で、カメラ北東方向道路右側を一部含み港区芝5丁目3までが挙母藩内藤家上屋敷跡になります。(挙母藩内藤家上屋敷跡範囲:港区芝5丁目1~3,11~15)