マーカーは郡山藩柳沢家中屋敷跡です。
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柳沢保興
[柳沢 保興(やなぎさわ やすおき)は、文化12年(1815年)6月17日、大和郡山藩第4代藩主柳沢保泰の長男として郡山城で生まれる。文政13年(1830年)4月11日に元服し、同年12月16日に従五位下に叙任する。天保9年(1838年)、父の死去で跡を継いだ。弘化2年(1845年)12月16日に従四位下に昇進する。
嘉永元年(1848年)8月21日、江戸幸橋邸で死去した。享年34。跡を三男の保申が継いだ。 (wikipedia・柳沢保興より)]
柳沢保申
[柳沢 保申(やなぎさわ やすのぶ)は、弘化3年(1846年)3月25日、第5代藩主柳沢保興の三男として郡山城で生まれる。嘉永元年(1848年)に父が死去したため家督を継いだ。
安政5年(1858年)12月1日、領地居城の郡山城二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群は全て焼失する大火にみまわれた。1861年(文久元年)に再建に着手するが、のち明治維新を迎え、1870年(明治3年)に藩は今後城の修理を行わないことを出願し、これが明治新政府に聴許された。
文久元年(1861年)5月28日、東禅寺のイギリス公使館が浪士に襲撃されたとき、それを防いだ功績で時の女王ヴィクトリアに賞賛された。文久3年(1863年)の天誅組の変鎮圧でも功績を挙げている。
しかし慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、官軍に協力して東北戦争に参加し、主に後方の輜重部隊の役割を果たしている。この頃、松平姓から元の柳沢姓に復している。明治2年(1869年)6月17日、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官された。
廃藩置県以後は産業の発展、および救済に力を入れ、明治20年(1887年)には柳沢養魚研究場を設立し、金魚の研究につとめ、明治26年(1893年)には産業の発展を目的に郡山紡績会社を創立させて、資本金の10分の1を出資している。また、教育振興にも熱心で、現奈良県立郡山高等学校に多額の金品と土地を提供した。 (wikipedia・柳沢保申より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右上隅に松平時之助(柳沢保申)中屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/2・絵図右上に松平甲斐守(柳沢保興)下屋敷と描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図中央・一ノ橋左下、三田小山町3-6番地が郡山藩柳沢家中屋敷跡になると思います。)
カメラ位置は小山橋で、カメラ東方向道路を含め両サイドが郡山藩柳沢家中屋敷跡になります。(郡山藩柳沢家中屋敷跡範囲:港区三田1丁目10,11)