三草藩丹羽家中屋敷跡

マーカーは三草藩丹羽家中屋敷跡です。

関連リンク – 三草藩丹羽家上屋敷跡三草藩丹羽家下屋敷跡(渋谷区立千駄谷小学校)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP865・コマ番号476/553から三草藩屋敷の変遷について記載されています。P866・コマ番号477/553「中屋敷 芝将監橋」がこの地になります。

丹羽氏賢
[丹羽 氏賢(にわ うじまさ)は、文化8年(1811年)11月25日、播磨国三草藩第4代藩主丹羽氏昭の長男として生まれる。文政10年(1827年)9月2日、父の死去により跡を継ぐ。12月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。12月28日、従五位下長門守に叙任する。
文政12年4月、日光祭礼奉行を命じられる。嘉永6年(1853年)12月8日に婿養子の氏中に家督を譲って隠居し、翌嘉永7年(1854年)9月28日に死去した。  (wikipedia・丹羽氏賢より)]

丹羽氏中
[丹羽 氏中(にわ うじのり)は、天保7年(1836年)2月18日、第5代藩主丹羽氏賢の弟・丹羽氏謙の三男として生まれる。嘉永6年(1853年)3月25日、伯父・氏賢の養子となる。同年10月15日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月8日、氏賢の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下長門守に叙任する。
文久3年(1863年)9月10日、大番頭に就任する。慶応3年3月1日、大番頭を解任される。慶応4年(1868年)2月26日、新政府に勤王誓書を提出、3月22日上洛し、恭順の姿勢を示す。戊辰戦争では新政府に軍資金を提供するなどして協力した。明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官される。  (wikipedia・丹羽氏中より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切右下、将監橋左に丹羽若狭守(丹羽氏賢)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/2・絵図四つ切右下に丹羽若狭守(丹羽氏賢)中屋敷が描かれています。)

カメラ位置は将監橋南側交差点で、カメラ南西方向が三草藩丹羽家中屋敷跡になります。(三草藩丹羽家中屋敷跡範囲:港区芝2丁目5)