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関連リンク – 蓮池藩鍋島家上屋敷跡
鍋島直与
[鍋島 直与(なべしま なおとも、旧字体: 鍋島直與)は、寛政10年(1798年)5月3日、肥前佐賀藩第8代藩主・鍋島治茂の七男として佐賀城で生まれる。文化2年(1805年)に親族の神代直興(鍋島光茂の玄孫)の養子となり、諱を直珍(なおよし)、通称を弾正と名乗った。文化12年(1815年)に四兄の直道が養父の蓮池藩主・直温から廃嫡されたため、代わって養子に入り、諱を直與、通称を主税に改めた。神代家の家督は長兄・斉直の三男の賢在が継いだ。文化13年(1816年)4月4日、直温の隠居により19歳で家督を継いだ。
藩政では高島秋帆の長男・高島浅五郎を招聘して新式大砲を製造させ、さらに多くの蘭書を翻訳させた。財政再建のために綱紀粛正、倹約令、家臣団の知行削減などを行なっている。
文政6年(1823年)、昌平黌で古賀精里に学んだ同藩用人の満野荷州(順、代右衛門)を藩校・成章館の教授に任じた。また佐賀蘭学の祖・島本良順を侍医として招聘している。
これら一連の藩政の実力を評価されて、天保元年(1830年)には幕府より幕府若年寄と寺社奉行に推挙されかけたが、本家藩主の甥斉正の反対に遭って実現することなく終わった。
弘化2年(1845年)7月28日、長男の直紀に家督を譲って隠居した。しかしその後も隠居の身で藩政に介入している。退隠後、蓮池東館の近隣数町の土地を遊園として造成し「天賜園」と名付けた。六十四景で構成されていた。嘉永2年(1849年)2月、塩田から取り寄せた大石に自作の七言十律詩を彫らせた「雲庵道人帰田碑」を園内に建立した。
安政2年(1855年)3月、直與の命で鋳造が計画されていた西洋大砲数門が完成し、直與自ら官用船・長久丸で海路を塩田へ赴き、久間村(現在の嬉野市塩田町久間)高取山で試射が行われた。のちに大砲は城内杉山の武器庫に納められた。
同年4月、本藩医・大石良英を招き娘4人に種痘を施させた。
元治元年(1864年)11月9日、蓮池東館で死去した。享年67。 (wikipedia・鍋島直与より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切左上・薩州殿下屋敷上に鍋島甲斐守(鍋島直紀)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図中央右、松平大隅守下屋敷上に鍋島統太郎(鍋島直紀)下屋敷が描かれています。)
カメラ西方向は蓮池藩鍋島家下屋敷跡に建つ、JCHO東京高輪病院です。(蓮池藩鍋島家下屋敷跡範囲:港区高輪3丁目10)