マーカーは飫肥藩伊東家下屋敷跡です。
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伊東祐兵
[伊東 祐兵(いとう すけたけ/いとう すけたか)は、安土桃山時代の武将・大名。日向伊東氏12代(伊東氏18代)当主。日向国飫肥藩初代藩主。
永禄2年(1559年)、日向国の戦国大名・伊東義祐の三男として誕生。
永禄11年(1568年)から飫肥城に入城、島津氏と戦った。しかし天正5年(1577年)、福永祐友・米良矩重らの謀反に呼応した島津氏の侵略によって父の義祐が佐土原を脱出すると、祐兵も父と共に同行する。米良山中から高千穂へ抜け、大友宗麟のもとを頼りに一時的に豊後国に退去した。
宗麟は義祐や孫・義賢のため、また日向国をキリスト教国にするという自身の大望のため天正6年(1578年)に日向国へ攻め入り島津軍と交戦したが、大友氏は島津氏に敗北を喫した(耳川の戦い)。大友家中の名立たる武将を失ったこの合戦の発端ともいえる伊東氏一族は大友領内で肩身が狭くなり、祐兵も義賢と祐勝を豊後に残して、父の義祐と正室の阿虎の方、及び河崎祐長・権助父子ら従者20余人と共に海を渡り、伊予国の道後に河野氏を頼り移住した。しかし、主従の生活は窮乏し河崎祐長は酒造りを営んで生活していたという。
その頃、かつて伊東家に世話になり、伊東氏が日向国を一時退去した後は祐長から伊東家再興の祈祷を度々頼まれていた山伏三峯という者が、巡行先の播磨姫路にて羽柴秀吉の黄母衣衆の一人・伊東掃部助(伊東長実か。)と出会った。遠祖を同じくする同族である尾張伊東氏の紹介により、祐兵の主従は織田氏に仕官することとなり、与力として羽柴秀吉の付属となった。
本能寺の変による織田信長の死後はそのまま秀吉の家臣団に組み込まれ、天正10年(1582年)の山崎の戦いで活躍し、祐兵も恩賞として「くりから竜の槍」と河内500石を領地として宛てがわれた。天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定により島津氏は日向国から放逐され、九州平定の際に九州平定軍の先導役を務め上げた功績により、旧領のうち清武・曾井に2万8,000石を与えられ、大名として復権した。翌16年(1588年)にはかつての本拠地である飫肥も取り戻し、3万6000石に加増された。その後、朝鮮出兵にも参陣した。慶長4年(1599年)、豊臣姓を下賜されている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵は西軍に与した。ところが、重病の床に伏していたために祐兵は出陣せず、密かに嫡男の祐慶を領国に派遣し軍備を整え、さらに黒田孝高を頼って徳川家康に通じた。領国では家老の稲津重政らが陣頭指揮を執り、伊東氏は東軍として西軍の高橋元種の属城である宮崎城を攻撃し占領した。実はこの時点で高橋氏も東軍に寝返っていたため、戦後に宮崎城は返還させられてしまったが、伊東氏の東軍としての参加と貢献を認められ、戦後に家康から所領を安堵された。
そして同年中、祐兵は大坂で病死した。 (wikipedia・伊東祐兵より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(絵図中央右に伊東修理大夫(伊東祐相)街並抱屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切右下・薩州下屋敷左に伊東修理(伊東祐相)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は港区芝5丁目34-2春日ビル北角で、御府内場末往還其外沿革圖書によると、カメラ南南西方向が飫肥藩伊東家芝下屋敷跡になるのではないかと思います。(飫肥藩伊東家芝下屋敷跡範囲:港区芝5丁目34)