白山傾城か窪 万金

マーカーは白山傾城か窪 万金跡付近です。

[文京区域には、江戸時代五街道のひとつ中山道日本橋京都(三条大橋))が通っていました。中山道は日本橋から日光御成道(おなりみち)と道を共有し、1里目の駒込追分で西に折れ、白山を通って巣鴨に抜けました。日光御成道はまっすぐ進み、赤羽・川口などを経て、日光に通じていました。中山道沿いの古河(こが)藩下屋敷辺り(現在の東洋大学の西側)は鶏声(けいせい)が窪(くぼ)(傾城か窪)と呼ばれていました。これは、藩邸内から夜ごと鶏の声が聞こえたため、地面を掘ったところ、金銀の鶏が現れたという故事に基づいて名付けられた地名です。広重が描いた錦絵によって、この辺りがにぎわっていた様子がよくわかります。  (「中山道(なかせんどう)周辺」より)]

江戸高名会亭尽(歌川広重) – 白山傾城か窪 万金「狂句合 玉子も厚焼き 大鉢へ数万金 扇枩」(wikipedia-photo)

[図会中央右端に高札場が描かれています、白山の高札場は、府内場末其外往還沿革図書に現在の白山上交差点の南角に描かれていますので、図会は万金の北側から南方向、現在の白山上交差点を描いています。]
[江戸の有名料亭を描いた30枚揃の内の1枚です。白山傾城ヶ窪は又鶏声ヶ窪とも書き、日本橋から巣鴨を経て板橋宿に至る中山道沿いにあり、近くには白山大権現がありました。
 「即席御料理」と書いた腰高障子と「万金」「まんきん」とのれんにある料亭の前に、道中姿の人々がたむろしており、客の応対で忙しい女たちも描かれています。画面右に高札場が見え、旅の人馬の往来で賑わう街道沿いらしい雰囲気が感じられます。この店の名物は厚焼玉子だったらしいことが、「卵の厚焼大鉢へ数万金 扇松」という扇形枠の「狂句合」の賛によってわかります。「万金」の名は、文久元年(1861)の料理屋番付にも見え、街道筋の料理屋として長く繁栄したようです。  (「江戸・東京の資料を種類とキーワードから検索 – 東京都立図書館」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駒込絵図」(絵図四つ切右上、「此上追分」の左下「白山前」の「前」の字付近に「高札場」がありました。「万金」は、そこの左上「駒込片町」にあったと思われます。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [23]貮拾元」(コマ番号2/5・絵図四つ切右上、方位「東」左下、「同町 年貢町屋」左角に、「高札」と記述されています。)

カメラ位置は白山上交差点で、カメラ南方向に高札場があり、万金はカメラ北方向にあったと思われます。