佐土原藩島津家上屋敷跡(綱町三井倶楽部・駐日オーストラリア大使館)

マーカーは三井倶楽部です。

佐土原藩島津家上屋敷跡(綱町三井倶楽部)
[綱町三井倶楽部(つなまちみついくらぶ)は、東京都港区三田二丁目(旧芝三田綱町)に存在する建造物及び庭園である。通常、三井倶楽部(みついくらぶ)と略して呼ばれる。一般公開はされていないが三井グループ関係者の倶楽部として用いられている。日向坂を登りきった場所にあり、隣に駐日オーストラリア大使館、正面には株式会社かんぽ生命保険 東京サービスセンターがある。三田二丁目の斜面と高台に位置し、高台上に建築物が存在し、南側の斜面及び低地に庭園が広がる。2009年頃まで、敷地内に佐土原藩藩邸の長屋がそのまま現存していた。
建物
●煉瓦石混造スレート葺きルネサンス様式、地階つき2階建
●延べ面積:2,876m2
●西洋庭園と日本庭園がある。
歴史
●1910年(明治43年)- 島津氏日向佐土原藩の江戸藩邸(上屋敷)跡に、三井総領家第10代当主三井八郎右衞門高棟ジョサイア・コンドルに設計を依頼し建築。
●1913年(大正2年)- 竣工。 三井財閥の迎賓館として使われた。
●1953年(昭和28年)-終戦前後には海軍の参謀連絡所、アメリカ軍のオフィサーズ倶楽部として用いられていたものが返還。
綱町三井倶楽部・wikipedia-photo

内部の天井・wikipedia-photo、佐土原藩藩邸の長屋(取り壊し前の写真)・wikipedia-photo  (wikipedia・綱町三井倶楽部より)]

[宮崎県の中心部、宮崎市佐土原町にある佐土原城建武年間(1334~1338)に作られた城ですが、ここは江戸時代、日向佐土原藩島津家の日向支配の拠点となった城でした。
「島津家」と聞くと、薩摩藩を思い浮かべる人が多いかも知れません。元亀3年(1572)、木崎原の戦いで、日向一帯を治めていた伊東氏(伊東義祐)を、島津氏が破りました。佐土原城には16代当主島津義久の弟・家久が入り、周辺一帯を治めます。関ヶ原の戦いで一時的に幕府直轄地となるものの、明治4年(1871)の廃藩置県まで、薩摩藩島津家の支藩として続きました。
佐土原城に居を構えていた島津氏は、三田二丁目に上屋敷、芝三丁目に中屋敷、白金四丁目に下屋敷を持っていました。
宗家である薩摩藩の藩邸(芝御屋敷・藩主居住邸)は芝二丁目にあり、佐土原藩士が日常的に出入りしていた記録が、『佐土原藩嶋津家江戸日記』に残っています。この記録から、お互いの関係を表すエピソードをご紹介します。
三田二丁目の佐土原藩邸は、享保6年(1721)2月9日に、神田橋方面で出火した火事が飛び火し、敷地内の長屋や 櫓が焼失してしまいました。藩邸再建のため、必要な費用を集めますが、どうしても1000両ほど足りません。そこで4月8日、不足分を借りたいと、見積書を添えて薩摩藩邸に願い出ます。4月11日、宗家が500両の貸与を決定します。佐土原藩はこれを受けて、5月23日、再建工事の準備を開始しました。7月5日には佐土原から材料が、7月9日には職人が江戸に到着し、再建工事に着手します。しかし9月12日、佐土原藩の領内で大雨・洪水が起こり、田畑や用水に大きな被害が出ました。佐土原藩は江戸藩邸再建のほかに、自分の領地内の復興を同時に進めて行かなくてはなりません。10月1日、宗藩からさらに500両を貸与されますが、「先に貸した500両と併せて、切り遣り(返済不要)としよう」という申し出を受けました。江戸の藩邸再建と、領地の復興に追われていた佐土原藩ですが、一銭の借金も背負うことなく、12月22日に江戸藩邸が復旧しました。
佐土原藩邸の一部は、昭和63年(1988)に、現在のオーストラリア大使館建設に伴い、埋蔵文化財の有無確認調査を行いました。当該地の東側は、天保13年(1842)から明治まで、日向佐土原藩島津家の屋敷地として使われていました。調査の結果、多くの陶磁器が出土しましたが、その中に1点だけ、薩摩焼と思われるものが発見されました。この時に発見されたものは「白薩摩」と呼ばれ、薩摩藩が藩主御用品や贈答品として作らせていたものだと言われています。
現在、佐土原藩邸の敷地の大部分は、綱町三井倶楽部となっています。  (「資料館だより」第79号(2017.3.1発行)PDFダウンロード7MB – 港区立図 – 佐土原藩島津家の江戸暮らし ~『佐土原藩嶋津家江戸日記』から~」より)]

駐日オーストラリア大使館
[綱町三井倶楽部を日向坂の方へ少し行くとオーストラリア大使館です。
切り絵図では、綱町三井倶楽部と同じく日向国佐土原藩(宮崎)「島津淡路守」の屋敷ですが、その後「徳島藩蜂須賀家」に、そして明治には「蜂須賀侯爵(蜂須賀茂韶)家」になっていた場所がオーストラリア大使館になっています。
建物はモダンなメタリックなつくりで、正面上方にはカンガルーなどの動物が姿を見せています。
大使公邸として使われていた以前の蜂須賀公爵邸は改築により失われていますが、ここの庭園にも渡辺綱の産湯の井といわれるものが残されています。
以前の公爵邸は、蜂須賀正韶正氏親子は共に、イギリスケンブリッジ大学で学んだこともあり、西洋風のカントリーハウスの邸宅を作っています。
昭和15年(1940)、オーストラリア政府はそのカントリーハウスを借用し、その後の昭和27年(1952)年、敷地と屋敷を購入して、初代のオーストラリア大使館としました。
それから オーストラリアの建設設計会社、デントン・コーカー・マーシャル社の設計により、伝統に則りながらも建物の外壁をPVF2コーティングのアルミ仕上げで装うモダンな建物が平成2年(1990)年に完成しました。  (「オーストラリア大使館 – カフェ「道みち」」より)]

駐日オーストラリア大使館・wikipedia-photo

佐土原藩島津家上屋敷跡資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切右上に「嶋津淡路守上屋敷」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [2]拾六上(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/2・絵図右上に嶋津淡路守と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 品川芝筋白金麻布. [1]」(コマ番号2/8・絵図四つ切右下、「有馬中務大輔」左上に「嶋津淡路守」と描かれています。)

日文研所蔵地図 – (内題)東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)明治16(1883)」(地図四つ切右下・三田綱町に蜂須賀邸が描かれています。)

カメラ南方向が佐土原藩島津家上屋敷跡(三井倶楽部)です。(佐土原藩島津家上屋敷跡範囲:港区三田2丁目1,3)

カメラ南方向が駐日オーストラリア大使館です。

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