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行徳河岸
[かつて、箱崎町と小網町・蛎殻町の間には、運河である箱崎川が流れていました。寛永9年(1632)、南葛西郡本行徳村(千葉県市川市)の村民が小網町3丁目先の河岸地を幕府より借りうけ、江戸と行徳舩場間で、小荷物や旅客の輸送を開始して以来、ここは行徳河岸と呼ばれるようになりました。江戸と行徳とをむすぶ船は毎日運航され、成田山新勝寺の参詣などで房総に向かう多くの人びとが、この水路を利用しました。 平成14年(2002)3月 中央区教育委員会 (「東京都中央区の歴史 行徳河岸 」より)]
行徳船
[行徳船(ぎょうとくぶね)とは江戸時代から大正時代にかけて江戸と下総国行徳を結んだ船のこと。江戸小網町の行徳河岸から本行徳の船場を往復するところから「行徳船」と名づけられた。これらの船は行徳船のほか長渡船、番船などとも呼ばれた。行徳船の航路は当初、行徳塩田でつくられた塩を江戸へ運ぶために1632年(寛永9年)頃からはじめられたが、やがて小名木川、新川の航路も人や物資の回送に使われるようになった。就航する船は最初16隻ほどだったが、1671年(寛文元年)に53隻、1848年から1853年(嘉永年間)にかけては62隻に増加し、毎日午前6時から午後6時まで江戸と行徳の間を往来した。ふつう船頭ひとりが漕ぎ手となり、24人乗りの客船で、旅客や野菜や魚介類のほか日用品などの輸送を行った。 (wikipedia・行徳船より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」(絵図右下・崩橋、永久橋の間が行徳河岸です。)
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」- 「行徳河岸・巻之6 – 4」
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「山王祭・其二」(2-21)、「山王祭・其三」(2-22)
山王祭(絵は鎧の渡しの東側、行徳河岸の箱崎川に架かる箱崎橋から南茅場町方向を描いたものです。其二に箱崎川に架かる箱崎橋と左上に日枝山王旅所が描かれている。また、其三で日本橋川に架かる涙橋と越前堀(亀島川)に架かる霊岸橋が描かれている。)
山王祭・其二(拡大図・山王祭・其二)
山王祭・其三(拡大図・山王祭・其三)
「中央区立図書館画像リンク・箱崎橋から新永久橋を望む-箱崎川船溜り-昭和32(1957)年」、「中央区立図書館画像リンク・新永久橋から蛎殻町を望む昭和32(1957)年5月」
カメラ北西方向植え込みの向うに行徳河岸跡案内板があります。