金嶺寺

マーカーは金嶺寺です。

金嶺寺
[天台宗寺院の金嶺寺は、倍増山宝城院と号し、慶長16(1611)年神田北寺町に起立し、慶安元(1648)年当地へ移転しました。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場31番です。
下谷地区板碑群(平成16年3月追加登載)
下谷地区に現存する板碑13基は、すでに「下谷地区板碑群」として平成2年度に区民文化財台帳に登載されています。今回、新たに確認された板碑5基が追加登載されました。板碑は中世に造立された石製の卒塔婆です。死者の追善供養、あるいは逆修供養のために立てられました。関東地方の板碑は、秩父で産出する緑泥片岩という青みがかった石を素材とすることが特徴で、特に「武蔵型板碑」と呼ばれています。中央には主尊が種子題目名号、あるいは仏の図像が刻まれ、その下に紀年銘や人名が刻まれています。金嶺寺に所在する板碑には至徳応安明応の年号がみえ、南北朝時代から戦国時代にかけて造立されたものです。主尊は阿弥陀如来を表す種子が多い中で、金剛界大日如来や題目が見られるなど、バリエーションに富んでいます。とくに題目板碑は、区内ではじめて確認されました。谷中地域は古くから人々の生活が営まれてきた場所ですが、近世以降の開発で中世の痕跡はほとんどみられません。その中で、板碑はその土地に根付いた民衆信仰の一端を知る上で貴重な資料です。(台東区教育委員会)  (「猫のあしあと – 金嶺寺」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」(絵図右下・上野山内の右・谷中八軒町右上方向に金嶺寺が描かれています。)

金嶺寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が金嶺寺山門です。

板碑
[板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。
板碑は中世仏教で使われた供養塔である。基本構造は、板状に加工した石材に梵字種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる。実際には省略される部位分もある。
分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。種類としては追善(順修)供養、逆修板碑などがある。形状や石材、分布地域によって武蔵型板碑、下総型板碑などに分類される。武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑泥片岩という青みがかった石材で造られたものをさすが、阿波周辺域からも同様の石材が産出するため、主に関東平野に流通する緑泥片岩製の板碑を武蔵型、四国近辺に流通していたものを阿波型と分類している。また下総型とは主に茨城県にある筑波山から産出される黒雲母片岩製の板碑をさしている。戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたものもある。現代の卒塔婆に繋がる。板碑は地域・時代等により形態や石材に多様性があり、地域間交流を知る考古資料として注目されている。  (wikipedia・板碑より)]

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