中津藩蔵屋敷(福沢諭吉誕生地)

マーカーは中津藩蔵屋敷(福沢諭吉誕生地)跡碑です。

福沢諭吉誕生地
[天保5年(1834)12月12日、諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵適塾に入門し、後に塾頭になっている。
 3度にわたる幕府の遣外使節に随行、明治文明開化啓蒙思想家として活躍、慶応義塾を開設した。  (「15.福沢諭吉誕生地(ふくざわゆきちたんじょうち) – 大阪市」より)]

[福沢諭吉は、天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島新地五丁目(現・大阪府大阪市福島区福島一丁目)にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福沢百助と妻・於順の間に次男(末子)として生まれる。父・百助は、鴻池加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった。中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。天保6年(1836年)、父の死去により大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。  (wikipedia・福澤諭吉より)]

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図中央左、堂島川に架かる玉江バシの左上、下から二番目に「中津」と記述されています。

カメラ北北西方向に豊前国中津藩蔵屋店舗之跡碑・福沢諭吉誕生地碑が設置されています。