久我畷・鳥羽作り道

「Google Earth で街並み散歩(日本編)」で取り上げた、久我畷・鳥羽作り道沿いについてまとめてみました。

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    鳥羽作道
    [鳥羽作道(とばのつくりみち・鳥羽造道)は、平安京の中央部を南北に貫く朱雀大路の入口である羅城門より真南に伸びて鳥羽を経由して方面に通じた古代道路。平安遷都以前からの道とする説や鳥羽天皇鳥羽殿を造営した際に築かれたとする説もあるが、平安京建設時に淀川から物資を運搬するために作られた道であると考えられている。『徒然草』において、重明親王元良親王の元日の奏賀の声が太極殿から鳥羽作道まで響いたことを書き残した故事について記されているため、両親王が活躍していた10世紀前半には存在していたとされる(ただし、吉田兼好が見たとされる重明親王による元の文章が残っていないために疑問視する意見もある)。鳥羽殿造営後は平安京から鳥羽への街道として「鳥羽の西大路」(この時代に平安京の右京は荒廃して朱雀大路は京都市街の西側の道となっていた)と呼ばれた。更に淀付近から淀川水運を利用して東は草津・南は奈良・西は難波方面に出る交通路として用いられたと考えられているが、その後の戦乱で荒廃し、現在では一部が旧大坂街道として残されているものの、多くの地域において経路の跡すら失われている。  (wikipedia・鳥羽作道より)]

    甜瓜(マクワウリ)
    [時代は安土桃山、天下を手中に収めた豊臣秀吉は、さまざまな趣向の茶会を開いた事が記録に残されています。そんな茶会の中に参加者が仮装して出席するというものもあったといいます。戦の数は減ったとはいえ、名だたる戦国大名が普段とはかけ離れた姿で参加した茶会は非常に盛大なものであり、秀吉の権勢を伺わせるものであったとされます。そんな大茶会に奇妙な行商人がいました。行商人は「」を売って歩いていて、仮装茶会でなければとてもその場に似つかわしくない存在でした。その行商人こそが天下人の秀吉で、瓜の行商人に扮して茶会に参加していたとされます。当時の甜瓜は「甘露」と称されるほど甘味のある食べ物として好まれ、京都の東寺や鳥羽などで盛んに栽培されていました。  (「天下人の瓜(1) – 食と家族の健康 – Yahoo!ブログ」より)]

    鳥羽作道資料リンク
    拾遺都名所図会」・巻之四 前朱雀 鳥羽作り道 (鳥羽)巻之四 前朱雀 鳥羽の甜瓜畑 (鳥羽)巻之四 前朱雀 鳥羽解説
     
    鳥羽作り道
    鳥羽作り道のルートは、羅城門遺跡となる京の七口(東寺口、鳥羽口 )になります。この交差点北側に矢取地蔵・柳谷観世音菩薩【道標】があり、【道標】には、[南]右ハ やなぎ谷 観世音菩薩(※楊谷寺・京方面から見て右が西国街道)、[西]左 やわた 八幡宮(※石清水八幡宮・京方面から見て左が大阪街道(旧千本通・鳥羽作道)、淀を通過して石清水八幡宮)と刻まれています。
    交差点を現在の旧千本通を南進します。十条通り西側両サイドに、吉祥院天満宮常夜灯があり、北側の常夜灯前に吉祥院天満宮への道【道標】があります。その先で、堀川が暗渠化され遊歩道になって、旧千本通に五丁橋跡があります。
    久世橋通りを過ぎて、JA京都市 上鳥羽支店の倉庫前南角に上鳥羽村道路元標があります。道路元標は大正 9 ( 1920 )年に施行された旧道路法と同法の施行令にもとづき、当時の市町村に道路元標が設置さ、市役所や町村役場の前など中心部を選んで建てられ、道路の起点表示の原点となったり、市町村間の距離表示の原点になっていました。この道路元標は移設されたもののようです。(「大字上鳥羽小字城ヶ前弐拾弐番地先」に設置ていた。)
    そこを過ぎ、少し行くと右方向に日像上人の弟子、大覚大僧正妙実上人によって南北朝期に開創されたと伝えられる、実相寺の参道があり、その先上鳥羽鍋ケ淵町交差点南西方向に建暦年間(1211~13)に説経節『かるかや』や謡曲『苅萓』の登場人物である苅萱道心が開創したと伝える誓祐寺があり、その先を進むと変則十字路があり東側道路が旧千本通で、左折してすぐ東側に京都六地蔵巡りのひとつで、遠藤盛遠(出家後の文覚上人)と袈裟御前の悲恋物語ゆかりの寺である浄禅寺があります。
    名神高速道路高架を潜り、突き当り東側に小枝橋があり、そこを渡り南東詰めで南進し、築堤道路を下った十字路北西角に慶応 4 ( 1868 )年正月戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦跡碑があります。そこを南進すると東側に、11世紀、院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河上皇に献上し、白河上皇は大規模な拡張工事を行い、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所、鳥羽離宮があり現在運動公園となっていて、鳥羽殿跡碑と案内板が設置されています。
    そこを南進すると、千本通赤池交差点でここが現在の久我畷の起点になります。
    千本通赤池交差点を通過し南進すると、丹波橋通り手前に浄禅寺と同じく文覚上人ゆかりの恋塚寺があり、丹波橋通りを過ぎた先に、延宝三年( 1675年 )創業。伏見では、最も古い歴史を持つ造り酒屋。“にごり酒”と“古酒”の元祖蔵元である「「月の桂」 – 増田徳兵衛商店」がり、その先鴨川河川敷に鴨川から河川敷に引き上げられ、二条城の石垣用とみられる 3 つの「鳥羽の大石」があります。
    その先を南進すると、天武 3 ( 674 )年道昭( 629 ~ 700 )の開創で、円光大師御旧跡となる一念寺があり、その先の三差路南西、ガードレール向こうの家屋角に横大路村道路元標があり、その先羽束師橋手前に横大路村の庄屋をつとめるいっぽう、運送業を生業とした旧家で古文書の残る藤田権十郎邸・藤田四郎右ェ門邸があります。
    この地横大路は,昔より草津湊として難波より京都への要衝として栄え、豊臣秀吉 ( 1536~98 ) の伏見築城により生鮮魚貝類を商う問屋が軒を並べ、慶応元 ( 1865 ) 年徳川幕府が魚市場公設を命じ,大橋孫四郎が経営に当り同業者が続出して賑わいました。しかし、明治 10 ( 1877 ) 年京都~神戸間の鉄道開通と共にその機能を失い衰退しました。そのしるしとして、先羽束師橋南東築堤に魚市場遺跡碑が設置されています。
    鳥羽作り道は小枝橋が発端となった、戊辰戦争の鳥羽伏見戦の戦場となり、この周辺には鳥羽伏見戦の東軍(幕府側)戦死者の遺骨を埋めた地を示す碑が数ヶ所設置され。この地は激戦地となった鳥羽街道愛宕茶屋の地である。
    鳥羽作り道はこの先、納所川に架かる「五番ノ橋」を渡り、現在の鳥羽街道(納所)交差点手前の T 字路を東進します。この T 字路と鳥羽街道(納所)交差点の間に、唐人雁木旧趾碑があります。「唐人」とは江戸時代将軍の代替わりや慶事に際して,朝鮮王から祝賀のため派遣された朝鮮通信使をさし、「雁木」とは船着場の階段の意みで、通信使は、対馬から瀬戸内海を経て大坂へ着き、大坂から川船に乗りかえ淀川をのぼり、淀城下で上陸し、休憩または宿泊後、京都へ出発し、さらに東海道を江戸へ向かったとされます。
    T 字路東進し京都守口線を横断(※横断歩道がないので迂回)し、さらに北東方向に進み鋭角 T 字路を南進すると、淀小橋跡碑がある大阪街道の旧道に出て鳥羽作り道の終点です。

    変則十字路の細道を東に進み、戊辰役戦場址碑が設置されている、納所会館で南進し、駐車場手前を東に向かい、次の T 字を南進して
    現在の鳥羽街道(納所)交差点の五番ノ橋方向に

    久我・羽束師
    [久我・羽束師は鴨川桂川西高瀬川の三川が合流する地点の右岸に位置し長岡京跡東端部にあたります。河川に沿って斜めに通る古道久我畷は、北は桂川を経て鳥羽に、南は山崎につながる重要な道路です。久我地域は、平安時代後期以降、村上源氏の一流・久我家荘園で別荘「久我殿」を構えたところで、古絵図などに「北殿」や「馬場」など関連する字名が残り、跡地には近世に建てられた寺社も多くみられます。それ以前は、古代の有力氏族である賀茂氏山背(城)進出の一拠点され、鴨森(かものもり)大明神(久我神社)が名残りをとどめます。羽束師地域は長岡京が造営されるまで、羽束(はつか)氏一族が居住していたところとされ、氏神羽束師神社が知られています。中世、南北朝動乱以後、防御のための土塁や堀に囲まれた在地領主の居館跡が点在し、今も道沿いには民家の石垣や用水路にその跡がしのばれます。  (「40.久我 羽束師 – 京都市埋蔵文化財研究所」より)]

    久我畷
    [久我縄手は、長岡京跡左京 53 次および下植野南遺跡の発掘調査結果により、その時代変遷を追うことができる。左京 53 次の調査では、平安時代初期の遺構の路面幅は約 9 m であったことが判明している。これに対して 12 世紀を下限とする遺構では、盛土の上に道路が形成され、路面幅も約 2 m と大幅に縮小している。下植野南遺跡では、敷設当初は 2 条の溝を掘削して路面を形成する約 10 m の幅の道路であったことや、部分的に石敷きを施していたことが明らかになっている。また、同遺跡の発掘では地盤が湿潤かつ不安定であったことがわかり、『太平記』に書かれている悪路の状況を裏付ける成果であるとされている。これらの発掘調査結果から、久我縄手が平安時代初期に遡るという見解がある。  (「山城国西部における山陽道の復原 – 立命館大学 村上晴澄」より)]

    久我畷
    鳥羽作り道の千本通赤池交差点を西進して京都府道202号伏見向日線久我橋を渡ります。この付近一帯は久我殿跡で、平安時代後期に久我家の邸宅があったところです。一帯は、河川や池、森が幽玄に広がり、遠くに山々が連なって自然の景観が多く、「久我の水閣」とも呼ばれました。 1033 年、村上源氏主流で、久我家の祖となる源顕房の別邸に始まり、それ以降、長い間にわたって久我荘は苗字荘園として久我家の支配が続きました。
    伏見向日線西方向、名神高速道路北側に平安時代の永久元年( 1113 ) 2 月、右大臣源雅実(みなもとのまさざね)が奈良の春日大社から天児屋根命(あめのやねのみこと)を勧請して創始したとされる菱妻神社があります。
    久我畷は久我橋を渡った先で南進します、南進すると直ぐに妙覚山誕生寺永平寺66世日置禅師が道元禅師の誕生の地顕彰を発願し大正 7 年に仮本堂を建立し、昭和 16 年に妙覚山誕生寺と改称した寺があります。その前を過ぎ久我村に入ります。築堤道路を降りた西方向、京都府道123号水垂上桂線西側に上久我城跡(妙昌寺)があります。
    久我村には、妙昌寺・満願寺・本清寺・妙真寺・福正寺などの日蓮宗の寺があり、これらの寺々は、日蓮宗の信者で久我家の諸大夫であった竹内季治(すえはる)が久我預所を管理したことにより、 1567 年に宗派を日蓮宗に改宗し今日にいたっています。また、久我 羽束師には居館跡があり、羽束師菱川城跡志水落合城跡古川城跡上久我城跡東土川城跡が知られ、堀や土塁に囲まれた室町時代の面影を今に伝えます。
    築堤道路から降りきり、京都府道 123 号水垂上桂線に合流して南進すると、森の宮南児童公園の一筋南に久我氏の祖神を祀る、久我神社の参道への進入路があり、その先松山医院先 T 字路を東方向に進むと神川神社参道口があります。
    久我畷は「今昔マップ」で見ると、この付近から長岡京市スポーツセンターまで、ほぼ、京都府道 123 号水垂上桂線、水路沿いの農道で確認することができ、京都府道 203 号志水西向日停車場線を越えると西羽束師川右岸を通り、西羽束師川右岸方向の水路沿いに進みます。
    この志水西向日停車場線菱川交差点南方向には創建は雄略天皇 21 年( 477 年)と伝えられ、続日本紀の大宝元年( 701 年)の条に記録がある羽束師神社(羽束師坐高産日神社)、西方向に羽束師菱川城跡(観音寺)があります。また、この交差点は久我畷四ッ辻と呼ばれていたようで、現在羽束師神社(羽束師坐高産日神社)西参道口に設置されている「羽束師川・丹波道・善峯・向日町【道標】」が従来あった場所と思われ、『今昔マップ』の 1892 ~ 1910 年の地図を見ると東側に鴨川渡しが描かれています。
    久我畷はこの先、長岡京市 上下水道部東第二浄水場では棚次遺跡(左京 28 次調査地)、長岡京市スポーツセンターでは雲宮遺跡(長岡京左京 58 次調査地)の調査が行われ久我畷の確認がされています。
    長岡京市スポーツセンターから名神高速道路大山崎ジャンクション先までは通行不可能ですが、大山崎ジャンクションの下植野南遺跡調査で、『「久我畷」を踏襲したと考えられる道路を 130 m にわたって調査しました。平安時代前期にさかのぼる久我畷を確認できるものと期待されました。
     調査では、平安時代後期には道路が敷設されていたことがわかりました。この段階では 2 本の溝に挟まれた幅 10 m の道路であり、その上面はある時期に部分的に小石で舗装されていました。ぬかるみを埋めたのか、重い荷物を運ぶために整地したのかもしれません。中世後期には畦道程度の狭い道路にかわっていました。
     現在利用されている道も古代から踏襲されていることがわかりました。(松尾史子) 』と記述されています。
    大山崎ジャンクションから西国街道との合流点となる松原の久我畷分岐までは現道と重なります。

    今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)京阪神図」の1892~1910年の地図で確認できるルートで、京・大阪街道のルートを設定しました。久我畷の黒実線は迂回区間です。