京都府庁(旧本館)[京都守護職屋敷跡]

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グーグル・アート・プロジェクト – 歴史アーカイブ – 「京都散策・明治初期~大正初期

[京都大学附属図書館が所蔵する、江戸時代の「中井家絵図・書類 幕府之部」図面13タイトルを電子化・公開しました。2020年1月27日現在、京都大学貴重資料デジタルアーカイブの公開件数は、14,372タイトル、1,333,705画像となりました。
中井家絵図・書類」は、江戸幕府京都大工頭の中井家(中井正清)に伝わった図面を中心とした資料で、二条城京都御所下鴨神社をはじめとする諸寺社等建築関係の図面、古文書、地図などが含まれます。今回は、京都所司代京都守護職などに関係する「幕府之部」から建築物の図面13点を電子化し、公開しました。  (「江戸時代の「中井家絵図・書類 幕府之部」図面13タイトルをを電子化・公開しました」より)]

[「幕府之部」は、江戸幕府京都大工頭の中井家に伝わった「中井家絵図・書類」のうち、江戸幕府京都所司代や京都守護職などに関係する図面です。
慶応元丑年八月 守護職御役宅上屋舗出来形絵図 但四分計その中のひとつ『慶応元丑年八月 守護職御役宅上屋舗出来形絵図 但四分計』は、京都守護職の上屋敷全図で、間取りや仕様が綿密に書き込まれており、幕末の状況を今に伝える貴重な資料です。
東は新町通、西は西洞院通、南は下立売通、北は下長者町通までを占め、敷地の東西南北には藩兵が待機する長屋がありました。
慶応元丑年八月 守護職御役宅上屋舗出来形絵図 但四分計(1865)」「添屋敷絵図」(※「添屋敷絵図」は下立売通、丸太町通の間、新町通、洞院通の間に描かれ、下役の屋敷地になっています。また、守護職御役宅上屋舗にあたる位置の洞院通の新旧が描かれ、上屋敷造設時に洞院通が移設されているのがわかります。)  (「幕府之部 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」より)]

京都守護職
[京都守護職は薩摩藩主の父島津久光が主導した文久の改革の一環として設けられた新職である。当時幕府の権威低下に伴い、京都には諸国から尊王攘夷派の過激志士らが集い、治安の悪化が懸念されていた。元来、江戸幕府においては京都所司代・京都町奉行が京都の治安維持の任についていたが、過激派による天誅(要人暗殺)や商家への押し込み(強盗)などの騒乱が横行し、所司代・奉行所のみでは防ぎきれないと判断した幕府が、京都市中(洛中)の治安維持及び御所・二条城の警備などを担う役割として設置したものである。
会津藩主・松平容保文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に就任。本陣を金戒光明寺(京都市左京区黒谷町121)に置いた。原則的に藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。容保は初め徳川慶喜松平春嶽からの再三の就任要請を断っていた。藩財政は既に浦賀蝦夷地の警備の任にあったことで窮乏状態にあり、また、家臣も就任反対で意見が一致していた。藩内では、家老の西郷頼母田中玄清が、反対意見を出した。しかし、春嶽が会津藩祖・保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾した。任を受けた君臣は会津藩江戸藩邸にあって「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したという。
京都守護職は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組も支配下となった。しかしながら所司代・町奉行・会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かり(非正規部隊)として新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。新選組を京都守護職に紹介したのは、佐々木只三郎だった。元治元年(1864年)の正月には、京都守護職屋敷が完成。場所は現在の京都府庁のあたりで、府庁内には京都守護職屋敷跡の碑がある。ほかに、千本下立売り東北角に会津藩邸屋敷、聖護院には会津藩邸と練兵場がつくられ、京都の治安維持に努めた。後、元治元年(1864年)に京都所司代に容保の実弟である桑名藩松平定敬が任命され、兄弟で京の治安を守る形となる。容保は文久3年末に一橋慶喜一橋徳川家当主・将軍後見職)・島津久光らとともに朝廷参預を命ぜられるなど(詳細は参預会議を参照)、孝明天皇の信任も篤かった。しかし参預会議は短期間で崩壊した。江戸の幕閣から警戒された徳川慶喜は将軍後見職を辞して朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮という新職に任命され、松平容保・定敬兄弟と連携して京都に幕府から独立した権力を築いた。一橋・会津・桑名の頭文字をとって「一会桑」(あるいは橋会桑)という。
慶応3年(1867年)10月に将軍となっていた徳川慶喜は大政奉還で江戸幕府の支配を形式上終焉させる。しかし将軍職は辞せず、京都守護職も残された。新政府を主導する薩摩藩や長州藩にとっては京都に大兵を擁する一会桑は脅威であったため、これらの解体を図る必要があり、12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令によって摂関・将軍など旧来の職が廃止されたことにともない、新政府が京都の支配権を確立したこともあって、京都所司代とともに、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。鳥羽・伏見の戦いの後、新政府が朝敵として指名した人物の第一等は徳川慶喜、第二等は松平容保だった。  (wikipedia・京都守護職より)]

京都守護職屋敷址
[京都守護職は,文久2(1862)年,京都の治安維持のために設立された幕府の役職で,会津藩主松平容保が就任した。京都所司代・京都町奉行(西町奉行所東町奉行所)などの上位に位置づけられた。その役宅は,はじめ黒谷金戒光明寺内に置かれたが,文久3年末この地に新築された。慶応3(1867)年12月に廃止され,その跡地には京都府庁が移転した。この石標はその役宅跡を示すものである。
所在地 上京区下立売通釜座上る(京都府庁内)
位置座標 北緯35度01分12.2秒/東経135度45分20.4秒(世界測地系)
建立年 1932年
建立者 京都市教育会
寸 法 高118×幅21×奥行21cm
碑 文
[北西]
京都守護職屋敷【「址」埋没カ】
[南西]
京都市教育会
[北東]
昭和七年十一月建之
調 査 2002年2月5日  (「KA016 京都守護職屋敷址 – 京都市」より)]

[慶応4年(1868)刊の「改正京町御絵図細見大成」を見ると,二条通りを挟んで南には広大な敷地を占める「加州屋敷」が,また北には西から「阿州屋敷」「越前屋敷」「富山屋敷」「秋田屋敷」が描かれ,熊野神社の東も「彦根屋敷」「大山屋敷」を初めとする諸大名の京屋敷によって占められている。
 いっぽう聖護院村には,鴨川に沿って広大な「御操練場」が描かれているが,これは文久四年に幕府が松平容保に命じて作らせた洋式練兵場で,その敷地は 37000 坪にも及んだという(『七年史』)。
 諸大名の京屋敷は明治維新後すぐに取り壊され,地区はやがて往時の農村風景を取り戻す。ただ,聖護院村の練兵所だけは,明治5年(1872),アメリカ人農牧師の指導による農学牧事教習のための牧畜場となっている。] 

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全」[文久3 [1863] – 絵図中央上方向、二条御城と禁裏の間に御用御屋敷と守護職御役宅上屋敷が描かれています。また、二条城左上、千本下立売り東北角に会津(会津藩の公用方)と記述されています。]

国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」[絵図中央上・御苑左に御用ヤシキ(守護職御役宅上屋敷)、御用添御ヤシキ(守護職御役宅下屋敷)が描かれ、その左方向、御所司代千本屋敷の左上に会津ヤシキが描かれています。また、右方向、加茂川右に御用御屋敷と練兵場が描かれています。]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」[絵図中央上・二条御城左上方向に軍務官(明治新政府の組織)、同添屋敷と描かれています、その軍務官が、元守護職御役宅上屋敷で、同添屋敷が元守護職御役宅下屋敷です。二条城左上、千本御屋敷(元所司代千本屋敷)左上にあった会津ヤシキは無くなっています。また、絵図四つ切右上・鴨川右の御操練場が元会津藩邸と練兵場になります。]

慶応元丑年八月 守護職御役宅上屋舗出来形絵図 但四分計」には左側端に西洞院通り、右側端に新町通、上側に下長者通、下側に下立売通が描かれています。「添屋敷絵図」は下立売通、丸太町通の間、新町通、洞院通の間に描かれています。

京都府庁(旧本館)
[京都府庁旧本館(きょうとふちょうきゅうほんかん)は、京都府京都市上京区にあるルネサンス様式の建築物。国の重要文化財。京都府の技師を務めた松室重光の設計により、1904年(明治37年)竣工。かつては京都府庁舎本館として使用された。京都府庁旧本館・wikipedia-photo  (wikipdia-京都府庁旧本館より)]

[京都府庁旧本館は、明治37年(1904)12月20日に竣工しました。昭和46年まで京都府庁の本館として、また、現在も執務室や会議室として使用されており、創建時の姿をとどめる現役の官公庁建物としては日本最古のものです。平成16年(2004年)12月10日に国の重要文化財<に指定されました。ルネサンス様式に属する建物の外観は、正面の一段高くなった屋根を中心に左右両翼に対称に張り出した形となっており、西洋近世の大邸館をほうふつとさせるものがあります。建物内部には和風の優れた技術が巧みに取り入れられており、内部意匠は建築よりも、むしろ工芸品といった趣さえ感じられます。中庭には祇園枝垂れ桜がありあす。  (「重要文化財 京都府庁旧本館-京都府ホームページ 」より)]

京都守護職上屋敷跡 – Google Map 画像リンク」「京都府庁 旧本館 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が京都府庁(旧本館)です。

京都府庁(旧本館)玄関前のストリートビューです。

京都府庁(旧本館)旧知事室のストリートビューです。