村岡藩山名家京屋敷跡

マーカーは村岡藩山名家京屋敷跡です。

[村岡藩(むらおかはん)は、室町時代には全国の6分の1を支配した守護大名山名氏の末裔である山名豊国が、関ヶ原の戦いの戦功により、徳川家康から七美郡6700石を与えられたのが藩の始まりである。その後の領主は新田開発や産業の振興などをすすめて実高を増やしていき、1868年、明治政府によって1万1000石への高直しが認められて立藩した(維新立藩)。  (wikipedia・村岡藩より)]

山名義済
[山名 義済(やまな よしなり)は、安政6年(1859年)7月28日、父義問の隠居により交代寄合である山名氏の家督を継ぐ。幕末期の動乱の中で、義済は早くから尊王論者として官軍側に協力していたため、慶応4年(1868年)6月20日、かねてから請願していた維新立藩(新規取立て)が認められて所領を1万1,000石とされ、翌明治2年(1869年)には藩主に取り立てられて諸侯に列し、ここに村岡藩が成立した。  (wikipedia・山名義済より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図四つ切左上・堀川左、出水通/智恵光院通左上に村岡と記述されています。)

カメラ位置は出水通/智恵光院通交差点で、カメラ北西方向が村岡藩山名家京屋敷跡になると思われます。