丹後田辺藩牧野家京屋敷跡

マーカーは丹後田辺藩牧野家京屋敷跡です。

牧野誠成
[牧野 誠成(まきの たかしげ)は、天保3年(1832年)5月19日、丹後国田辺藩第8代藩主・牧野節成の長男として生まれる。嘉永5年(1852年)6月5日、父が病気で隠居したため家督を継いで9代藩主となった。安政2年(1855年)2月に大坂加番に任じられる。元治元年(1864年)3月に二条城警備、7月の禁門の変では幕府方として参加して御所の警備を務めた。8月の第一次長州征討では14代将軍・徳川家茂の警護を務めている。これらの功績から、9月10日には奏者番に任じられた。
慶応2年(1866年)の第二次長州征討では、丹後近海の海防などを理由に本国待機を許されている。この頃から誠成は病に倒れるようになり、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に属している。明治2年(1869年)3月5日に田辺で死去。享年38。跡を長男の弼成が継いだ。
誠成自身は開国論者であり、開明的な藩主といわれている。藩政では砲台の建設、藩校の増改築に努めて学問を奨励した。また、能書家であったともいわれる。  (wikipedia・牧野誠成より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図四つ切左下・仏光寺通大宮通西入ル南に田辺ヤシキと記述されています。)

カメラ位置は仏光寺通大宮通西入ルで、カメラ南方向が丹後田辺藩牧野家京屋敷跡になると思います。