久留米藩有馬家京屋敷跡

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[明治二年(一八六九)一月二十五日。筑後国久留米城下の寺院で、一人の藩士が切腹した。この日、同藩内では八人の藩士が切腹を命ぜられ、順次、自刃を遂げていったが、この人物も、その中の一人だった。名を久徳与十郎という。
 かつて藩主小姓に任ぜられていた久徳は、元治元年(一八六四)五月七日に京都に上り、その後、久留米藩の京都留守居役として活躍した。上京後、ほどなく勃発した禁門の変の際には長州軍と果敢に戦い、関白二条斎敬から、感状なども得ている。
 幕末期の久留米藩は、佐幕派が藩政の中枢を担い、尊皇攘夷派の排除を図っていた。こうしたこともあって、久徳も、会津桑名藩士らと、交流や親交を深めていくことになっていった。
 しかし、そんな久徳は、幕府の衰亡とともに、イニシュアティブを取ったかつての藩内急進派から、真っ先に糾弾されることとなる。慶応四年(一八六八)四月、切腹に先がけ、久徳は知行召し上げの上、揚り屋入りの沙汰を受けるが、その罪状は「在京中、会桑などへ深くあい交わり、勤皇の大道取り失い」とされるものだった。これが、かつての同志七人とともに迎えた、切腹という悲劇へと結びつくことになる。
 実際、京都留守居役としての久徳は、きわめて積極的に活動をしていた。その片鱗をうかがわせる、大変興味深い資料がある。
それは、在京中に綴られた久徳のメモだった。
「諸藩性名」と題されたそのメモには、実に膨大な数の人名が記されていた。几帳面だったらしい久徳は、藩邸の内外で自身が接触した人名を、それぞれの藩ごとに記録していたのである。
 冒頭部に、二条家など公卿諸家の用人などの名前を並べたあと、久徳は、次のような順で、諸藩士の名前を綴っている。
(略)
公卿関係者を含めて、三百名以上に及ぶ人名が並ぶさまは実に壮観である。そして当時大島吉之助を名乗っていた薩摩藩西郷隆盛や、後年、会津戦争で一族多数を失うこととなる会津藩家老西郷頼母など、中には一般によく知られる人物の名も散見される。このメモから当時、京都で活躍した諸藩士一人一人の名前を追ってゆくだけでも、興味は尽きない。
 諸藩の筆頭に明示され、頭抜けて多い藩士名が綴られていたのは、会津藩と桑名藩だった。久徳与十郎が仇敵から突きつけられた罪状の文言は、皮肉にも、この両藩の交流人数の異様な多さが、如実に証明することにもなっている。
 ところで、この久徳与十郎のメモを見ていた私は、そこに驚くべき一団の人物名を見つけた。末尾近く「西本願寺」と「姫路」の間に記入されていた人々である。
 そこに、こんな記述があったのである。
  新撰組
近藤勇
武田観柳斎
伊木八郎
浅野藤太郎
尾関弥四郎
竹内元太郎
田中寅三
塚本善之助
 そこに並んでいたのは、まぎれもなく実在する八人の新選組の隊士名だった。そしていずれの隊士も、きわめて個性豊かな顔ぶれだったのである。
京都久留米藩邸は、西洞院通り四条上ルの西側に位置していた。新選組の壬生屯所からは、徒歩およそ十分程度でたどり着く距離である。
 局長の近藤勇以下八人の新選組隊士は、某日、連れだってこの藩邸を訪れたのだろう。そして京都留守居役の久徳与十郎に面談したものと思われる。
「諸藩性名」には、御所内で顔を合わせた旨が付記された藩士なども記されているが、近藤勇らは、直接藩邸内で、久徳に会ったのだろう。
 新選組の訪問期日を特定する鍵となるのは、四番目に記された浅野藤太郎である。
 浅野は、新選組がその名を高めた元治元年六月五日の池田屋事件にも参加した隊士だが、事件からほどなくして、その名を「浅野藤太郎」から「浅野薫」へと改めている。そして、この「浅野薫」の名が初めて同時代史料に登場するのは、同年九月二十三日のこととなる(『北沢正誠日記』)。
 したがって、新選組隊士たちの久留米藩邸訪問は、元治元年九月二十三日以前のこととみなければならないだろう。さらに近藤勇は、それに先がける九月六日に、隊士募集などの目的で、江戸へ帰還の途に発っている。近藤の帰京は十月二十七日のことだった。
 元治元年八月某日。近藤以下八人の隊士が久留米藩邸を訪れたのは、折しもその頃のことだったと断定してもいいだろう。
 明治二年一月二十五日、このかけがえのない史料を後世に残した、もと久留米藩京都留守居役・久徳与十郎は切腹した。生年不明ながら、その享年は五十歳ほどだったと伝えられる。  (「近藤勇と新選組、京都久留米藩邸に出没す」より)]

「諸藩姓名(しょはんせいめい)1864年~1866年頃 – 久留米市教育委員会所蔵
久徳与十郎(きゅうとくよじゅうろう)が京都留守居役として在京中に記した人名録です。元治元~慶応2年頃の在京諸藩士を列挙しています。親交篤かった会津・桑名藩や、薩摩・長州・土佐・筑前・肥前・尾張・越前・彦根・出雲藩など、記載は譜代・外様諸藩の多岐にわたります。新撰組や「大嶋吉之助(西郷隆盛)」「大久保一蔵(大久保利通)」の名も見えます。  (「久留米藩の幕末維新 -大名有馬家臣団Ⅲ- | 展示案内 | 有馬 ..」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央下・堀川、醒井右に有馬玄蕃と記述されています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図中央下・四条傘鉾町上に久留米屋敷が描かれています。)

カメラ位置は四条西洞院交差点で、カメラ北西方向が久留米藩有馬家京屋敷跡になると思います。