マーカーは新築中の下京雅小学校です。
園部藩小出家京都屋敷跡
[園部藩は、元和5年(1619年)12月、但馬国出石藩主であった小出吉親が新たに入部してきたことにより立藩した。所領はおよそ2万9800石ほどである。初代藩主・吉親は園部城築城や検地、城下町の建設や治水事業に励んで藩政の基礎を固めた。吉親は寛文7年(1667年)6月9日に隠居し、家督は子の小出英知が継いだ。このとき、藩領は隠居料として吉親が5000石、英知が新墾田を併せて2万5000石を継ぐこととなった。翌年3月11日に吉親が死去すると、その隠居料であった5000石は英知の弟・小出吉直と小出吉忠がそれぞれ3000石と2000石に分割して相続した。
第4代藩主・小出英貞は奏者番、寺社奉行、若年寄を歴任し、次男の小出英治に1000石を分与している。第5代藩主・小出英持も英貞と同じくその三職を歴任し、第6代藩主・小出英常は奏者番になるなど、幕府の要職を歴任している。しかし第7代藩主・小出英筠の頃から飢饉や旱魃、洪水などの天災によって藩財政の窮乏化が表面化し、天明7年(1787年)には凶作と米価高騰などから百姓一揆が発生する。いわゆる天明の一揆であるが、これを皮切りにしてその後も火事などの災害が相次ぎ、藩内では打ちこわしや強訴が相次いで発生した。このため、藩では煙草の専売制や木材の市場移出制を中心とした藩政改革を実施して効果を挙げている。
幕末期には早くから御所の警備を行なうなどして官軍側に帰順した。
園部藩参勤交代行列図(1)・wikipedia-photo、園部藩参勤交代行列図(2)・wikipedia-photo、園部藩参勤交代行列図(3)・wikipedia-photo (wikipedia・園部藩より)]
[園部藩では苦しい財政状況を打破するため、煙草の専売制を宝暦2年(1752)から実施しました。その方法は藩内で生産された煙草は仲買人が生産者から買い上げ集荷し、京都藩邸(京都市下京区醒ヶ井通松原下る)に持ち込み、商人によってセリ売りがされてました。 (「園部藩立藩400年 – 園部藩の経済」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863] )」(絵図中央下方向・本圀寺右上、松原通下に園部と記述されています。)
「国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」(絵図中央下方向・本圀寺右上、松原通下にソノベヤシキと記述されています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図中央下方向・本圀寺右上、松原通下に園ベヤシキと記述されています。)
カメラ位置は醒ヶ井通/松原通交差点で、カメラ南東方向に園部藩小出家京都屋敷があったと思われます。園部藩小出家京都屋敷の中心は元醒泉小学校で、淳風小と統合し、新校舎下京雅小学校となり現在新校舎建築中です。また、この場所は平安時代の漢学者三善清行の邸跡でもあります。