マーカーは徳島藩蜂須賀家京屋敷跡です。
徳島藩蜂須賀家京屋敷
[阿波藩は阿波名東部に置かれた藩で、徳島藩ともいう。
京屋敷は寛永期(1624~44)松原通新町東入北側にあった。
その後、高辻通西洞院西入、四条通室町西入町に移り、祇園会の際、町内に寄付金を出すなど町人とも交流した。
幕末には二条川東の地(徳島藩岡崎邸跡)にも邸を構え、阿波藍の販売など豊かな経済力を基盤として、朝幕間の政治にも大きな影響力をもった。 (「京都辞典」より)]
庚午事変
[庚午事変(こうごじへん)は、明治3年(1870年)に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。
結果的に淡路島の帰属をめぐる重要な事件となり、この事件の影響で淡路島は再び徳島県から離れ、兵庫県に編入された。
徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、戦国武将稲田植元を元祖としており、植元は蜂須賀正勝(小六)の義兄弟の契りを交わし揃って織豊政権に仕えていたが、蜂須賀家政の阿波入府の際に植元が蜂須賀家の「客分」として入国した。以降、稲田家は徳島藩の家臣としては破格の待遇を受けてきたが、これにより幕藩体制を通じて、蜂須賀家と稲田家の関係が対等関係から主従関係への変化と固定が進むことになった。このような経緯から主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が以前よりあった。
幕末期、徳島藩側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島藩側との対立をさらに深めていくようになった。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣の稲田家家臣は卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。
明治3年5月13日(1870年6月11日)、稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島藩側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。また、その前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町(現在の美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍した。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷が25棟であった。
政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、徳島藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったかを調査した。少なくとも洲本では意図的に緊急の措置を怠った疑いがある。そのような事実が少しでもあれば、徳島藩知事であった蜂須賀茂韶を容赦なく知藩事職から罷免するつもりであった。
当時の日本は版籍奉還後もかつての藩主が知藩事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だった。政府にとって、この問題は中央集権化を推進していく上で是非とも克服してゆかねばならなかった。だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。
結局、政府からの処分は、徳島藩側の主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首(後に藩主蜂須賀茂韶の嘆願陳情により切腹になった)。これは日本法制史上、明治以降において行われた切腹刑の事例である(死刑執行方法としての切腹は1873年(明治6年)廃止。)。首謀者数名が徳島県徳島市住吉の蓮花寺(1丁目)にて切腹した。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。知藩事の茂韶や参事らも謹慎処分を受け、徳島藩自体の取り潰しはなかったものの、洲本を含む津名郡(稲田氏知行地)は翌明治4年(1871年)5月に兵庫県に編入されている。
稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、映画『北の零年』でも描かれている。
明治初期に同地で生まれ育った作家・岩野泡鳴によると、稲田事件以来、藩主蜂須賀氏の直参派と稲田氏の城代派とは家来同士睨みあうところとなり、子供同士の交際ですら親たちは好まなかったという。直参派は城代派を一階級下の陪臣者として見下し、城代派は直参派を他国者として侮蔑しており、直参派の子孫である泡鳴も、その浜屋敷の大門を一歩出ると敵国の中にいるような気がして、小学校へ通うのもまるで敵の目を掠めていくようなものであったという。
明治4年7月14日(1871年8月29日) – 廃藩置県
津名郡の一部が兵庫県になっていたが、11月15日(12月26日) – 淡路島全島を名東県(阿波国・淡路国・讃岐国)に編入。
明治9年(1876年)8月21日 – 第2次府県統合。名東県より淡路島全域が兵庫県に移管される。
洲本市立淡路文化史料館では、「庚午事変」のコーナーが常設展示され、事件当時のことを綴った稲田家臣の手記などが展示されている。 (wikipedia・庚午事変より)]
「稲田騒動,庚午事変 ここには、明治維新直後に阿波徳島と淡路島洲本で起こった稲田騒動(庚午事変)とその背景」
「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」 – 「寛永後萬治前洛中絵図(出版年 1642)」[絵図四つ切左下・東御門跡(東本願寺)右方向、因幡薬師堂(平等寺)上方向、松原通新町東入北側に松平阿波守屋敷地(後の丹波亀山藩京屋敷地か?)が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図四中央右下方向、四条通り、烏丸通り交点左下に阿波と記述されています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図四中央右下方向、四条通り、烏丸通り交点左下に福知山と記述され、そこの左に無記述の屋敷地が描かれています。ここが、徳島藩蜂須賀家京屋敷跡ではないかと思います。)
カメラ位置は四条通り/室町通り交差点で、カメラ南東方向が徳島藩蜂須賀家京屋敷跡になるのではないかと思います。