マーカーは水口藩加藤家京屋敷跡です。
加藤明軌
[加藤 明軌(かとう あきのり)は、文政11年(1828年)1月23日、近江水口藩第9代藩主・加藤明邦の次男として江戸で生まれる。弘化元年(1844年)10月1日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下・和泉守に叙位・任官する。弘化2年(1845年)2月5日の父の隠居により家督を継いで第10代藩主となり、3月20日に越中守に遷任する。 弘化4年4月2日、日光祭礼奉行を命じられる。嘉永2年(1849年)2月3日、大坂加番を命じられる。
藩政では歴代藩主時代の財政難に加え、嘉永6年(1853年)5月には旱魃が起こるなどしたため、櫨の植樹政策などを行なっている。幕末期においては文久元年(1861年)の和宮警護、文久3年(1863年)の伏見警備、元治元年(1864年)の禁門の変における京都警護などに務めている。慶応2年(1866年)2月29日、家督を弟で養子の加藤明実に譲って隠居する。
明治16年(1883年)8月11日、東京芝愛宕下の旧邸で死去。享年56。 (wikipedia・加藤明軌より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央右下・四条通/東洞院通、右下に水口と記述されています。また、絵図四つ切右下・松原通、六道の下にも水口(東山松原京屋敷)と記述されています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図中央右下・東洞院四条通下ル東に水口ヤシキが描かれています。また、絵図四つ切右下・安井御門跡(安井金比羅宮)、松原通下にも市橋ヤシキが描かれています。)
カメラ位置は東洞院四条通下ルで、カメラ東方向が水口藩加藤家京屋敷跡になると思います。