マーカーは高鍋藩秋月家京屋敷跡です。
高鍋藩秋月家
[秋月氏はもともと筑前国を領していたが、豊臣秀吉の九州征伐のとき、時の当主・秋月種実が島津氏に与して抵抗し、のちに秀吉に恭順した。これにより36万石相当あった領地から、日向国串間3万石に移封された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、秋月種長は西軍に与して大垣城を守備していたが、9月15日の関ヶ原本戦で西軍が壊滅すると、いち早く東軍に寝返って大垣城にあった西軍の諸将を殺害して開城したため、所領を安堵された。その後、慶長9年(1604年)に居城を財部城(高鍋城)に移し、正確にはこの時点より高鍋藩が成立したと言える。
2代種春は、家老の白井種盛・種重親子による専横に悩まされ続けた。また財政が逼迫し、知行の半減などがなされて、藩士の禄高は最高でも300石を出ないものとなる。
3代種信は、その白井一派の専横により生じた問題(上方下方騒動)を解決し、悪化した藩財政の回復にも取り組んだ。延宝元年(1673年)、財部から高鍋に城地の名を改めた。
4代種政は、元禄2年(1689年)弟の種封に3千石を分与したため、以後の表高は2万7千石となった。
江戸時代中期、6代種美の次男は米沢藩(上杉家)に入り、名君として有名な上杉鷹山(治憲)となるが、その兄に当たる7代種茂も、高鍋藩の歴代藩主の中の名君として治績を上げた。安永7年(1778年)には藩校明倫堂を開いた。
秋月家は10代にわたって高鍋を支配し、明治時代に至った。
藩牧と御崎馬
江戸時代の初めには、高鍋藩も他の藩と同様に軍事用の騎馬や運搬用として畜産を進めていた。特に馬の生産において力を入れた牧場が、藩の飛び地であった御崎牧(現宮崎県串間市都井)である。種美時代には藩営の牧場が高鍋に1つ、串間市に7つあった。この頃から放牧しておりそのまま半野生化しているのが都井岬の御崎馬(岬馬)である。国の天然記念物に指定されている。高鍋藩では、毎年秋のころに「駒追い」(馬の検査を兼ねて2歳の牡馬を捉える行事)が行われていた。名目は少し変わってきているものの、「都井岬馬追い」として現在でも毎年続いている。 (wikipedia・高鍋藩より)]
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図四つ切左下・本願寺御門跡左、ウラ片丁左に高ナベと記述されています。)
カメラ位置は正面通/裏方町通交点で、カメラ北西方向道路左に高鍋藩秋月家京屋敷跡があったと思われます。