マーカーは三条大橋です。
三条大橋
[三条大橋(さんじょうおおはし)は、京都市にある三条通の橋。鴨川に掛かっている。橋が架けられた時期は明らかではないが天正18年(1590年)、豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、江戸幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。現在の橋本体は2車線、歩道付のコンクリート製で1950年(昭和25年)に作られた。橋の名は、三条通と鴨川左岸(東側)を走る川端通の交差点名にもなっている。
三条大橋に関わる歴史
年代順に記述する。
●東海道五十三次 – 1601年(慶長6年)に徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の起点。
●弥次喜多像 – 江戸時代に出版された『東海道中膝栗毛』の主役である弥次郎兵衛と喜多八の像がある。像の側にある撫で石を撫でると縁起がいいらしい。(https://goo.gl/maps/EJyDK3yHpBh7TSKY8)
●三条大橋擬宝珠刀傷跡 – 1864年7月8日(元治元年6月5日)に発生した池田屋事件で付いたとされる刀傷が、橋の北側と南側の2か所(西から数えて2つめの擬宝珠)に現存する。
●三条制札事件 – 三条大橋の西詰め北側には、江戸時代に藩や幕府の高札を立てた「高札場跡」がある。この場所をめぐる特に有名な事件として、1866年(慶応2年)8月28日に発生した三条制札事件がある。なお、天正年間の大改造の際に使用された石の柱が現存する。(https://goo.gl/maps/7nJLXn9WfCKhxxi78)
●駅伝の碑 – 日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを記念する説明碑「駅伝の碑」がある。1917年(大正6年)4月27日から3日間にわたり開催された。(https://goo.gl/maps/R5Hi1RfVQ8yXW4rRA)(※東詰め北側)
処刑場として
近隣の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた。ここで処刑・晒し首にされた著名な人物を挙げる。
●豊臣秀次と、その妻子側室侍女 – 豊臣秀吉より謀反の疑いをかけられ高野山で切腹した後、三条河原へ豊臣秀次の首が運ばれた。首が据えられた塚の前で妻子侍女など39名が処刑され、秀次の首と共に一ヶ所に埋葬された。
●石田三成 – 安土桃山時代の武将。関ヶ原の戦ののち六条河原で斬首刑となり、三条河原で晒し首にされた。
●石川五右衛門 – 安土桃山時代の著名な盗賊。1594年(文禄3年)8月25日、釜茹での刑に処せられた。
●近藤勇 – 新撰組局長。1868年(慶応4年)4月25日、板橋刑場(武蔵国板橋宿付近)で刑に処せられたあと、三条河原で晒し首となった。
『東海道五十三次 三条大橋』歌川広重筆・wikipedia-photo
広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)京 三条大橋之圖』(commons.wikimedia)
『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 五十五 五十三次 大尾 京 三条大はし」(commons.wikimedia)
「三条大橋(東詰より)。渡りきったところに弥次喜多の像がある」・wikipedia-photo、弥次さんと喜多さんの像・wikipedia-photo、駅伝発祥の碑・wikipedia-photo (wikipedia・三条大橋より)]
[古来鴨川は氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた。これは大都市を流れる河川としては勾配が急であることに加え、平安京造営時に北山の木が伐採されたこと、市街地の東への拡大にともない河原が市街地化したことなどが原因である。
824年(天長元年)には治水を担当する防鴨河使(ぼうかし)という官職が設けられたが、洪水はやまなかった。平安末期に権勢をふるった白河法皇は、自らの意に沿わないもの(天下三大不如意)の筆頭に「賀茂の水」を挙げている。豊臣秀吉の築いた御土居の東部は鴨川に沿っており、堤防としての役割を兼ねていた。また1670年(寛文10年)には今出川通から五条通までの区間に寛文新堤が設けられ、御土居との間が新たな市街地として開発された。 (wikipedia・鴨川_(淀川水系)より)]
[今は穏やかな表情を見せる鴨川ですが、かつてはしばしば氾濫する暴れ川でした。平安時代前期から水害対策がこうじられ、その後何度も治水工事が行われました。寛文新堤は寛文9年(1669)、江戸時代前期に築かれた護岸のための石垣です。鴨川初の本格的な堤防ともいわれ、現在も三条大橋西詰下の石垣にその一部が残っています。一際大きな石を使った。城壁を思わせる様な石組みは迫力満点です。 (「京のおもしろ発見!|京の風物詩 京都鴨川納涼床への誘い」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第十 土山ヨリ京マデ」(コマ番号25/26)
絵図を右方向にスクロールすると、「三条大橋」と記述されています。
「都名所図会」・「巻之一 平安城再刻 三条大橋」、「巻之一 平安城再刻 三条橋 (三条大橋)解説」
三条大橋(拡大図)
「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [編画] ; [秋里湘夕] [撰]」・「三条橋」(1-11)、「解説・左ページ」(1-12)
[京三條橋
太閤秀吉公 増田長盛に奉行せしめ作る所也。東海道五十三駅これよりはじむ。橋の前後旅館多し。橋は石柱の濫觴とぞ。長さ三十七丈余。擬宝珠に銘あり。 (「伊勢参宮名所図会」より)]
「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「平安城三条大橋」
(三条大橋から東山を見た鳥瞰図で、知恩院、祇園、八坂の塔、清水寺が描かれている。)
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「三条大橋 白川橋」( 1巻 – 17 )
「国立国会図書館デジタル化資料 – 浪花百景付都名所」 – 「都名所之内 三条大はし」
「三条大橋 – Google Map 画像リンク」「弥次喜多像 – Google Map 画像リンク」
三条大橋下流河川敷遊歩道からのカメラです。
カメラ位置は三条大橋南西詰めで、カメラ北東方向が弥次喜多像です。