二条城

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    二条城(二の丸御殿)二条城(二の丸庭園)二条城(本丸櫓門)二条城(本丸御殿)二条城(本丸庭園)二条城(天守台)二条城(清流園)二条城(北大手門)二条城(西門)二条城(南門)二条城(東南隅櫓)

    二条城
    [二条城(にじょうじょう)とは京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城である。徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。京都市街の中にある平城で、足利氏織田氏豊臣氏徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは、徳川氏によるものである。城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されている。
    江戸時代中期の二条城の縄張り図・wikipedia-photo、「東大手門。奥に二の丸御殿を囲む築地塀が見える。」・wikipedia-photo  (wikipdia・二条城より)]

    佛教大学図書館所蔵・貴重書等のデジタルアーカイブ集」 – 「一般公開コレクション – 都名所百景 – 花洛細見圖(12)」[8/12が二条御城の細見圖で、9/12から11/12まで武家礼儀の細見圖です。画像右上の「翻刻」ボタンをクリックすると原文、解説が表示されます。]

    グーグル・アート・プロジェクト – World Wonders – 「古都京都の文化財:二条城

    グーグル・アート・プロジェクト – 歴史アーカイブ – 「御所と離宮

    東大手門(櫓門)
    [外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつある。ただし、南門は1915年(大正4年)に大正天皇の大典に備え新たに造られたもので、本来の城門ではない。正門は堀川通に面した東大手門(櫓門)である。西門(埋門)と前述の南門は外堀を渡る橋がなく使用されていない。北大手門(櫓門)も普段は閉鎖されている。また、この他に城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。なお東大手門は現在創建時と同じく櫓門となっているが、後水尾天皇行幸を仰ぐ際、上から見下ろすのは不敬として一重門に変えられた。行幸後には再び櫓門に戻された。
    東大手門・wikipedia-photo  (wikipdia・二条城より)]

    [東大手門[重要文化財]
    二条城の正門にあたり、現存の門は1662年(寛文2年)頃の建築と考えられています。築城当時は現在のように櫓門(2階建て)でしたが、寛永の二条城行幸時には天皇を2階から見下ろさないようにとの配慮から、一重の門に建て替えられたと言われています。  (「二条城の概要 | 二条城 世界遺産・元離宮二条城」より)]

    二条城ホームページ」 – 「場内マップ

    中井家絵図・書類 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」 – 「二条御城中絵図」、「二条城絵図」(二の丸御殿北側東に東御番頭御小屋、その左に東組御番衆御小屋、本丸御殿北側西に西御番頭御小屋、本丸御殿西側に西組御番衆御小屋、本丸御殿南側西に西組御番衆御小屋、その右に稲荷曲輪与力同心小屋が描かれています。)、「二条御城中/東大御番頭小屋絵図」、「東御番衆小屋絵図」、「西御番頭小屋指図」、「二条御城中西ノ御番衆東之方御小屋向出来形絵図

    [武家における番頭(ばんがしら・ばんとう)は、主に江戸幕府大番の指揮官が大番頭と呼ばれ、平時は江戸城大坂城・二条城の警備を務め、また有時及び行軍に際しては幕府軍の一番先手の備並びに騎馬隊指揮官(侍大将)として、番方(武官)で最高の格式を誇った。5000石以上の旗本または、1万石クラスの譜代大名から複数が任じられた。大番頭配下の中間管理職は大番組頭と呼ばれた。
    警備隊長・一指揮官にすぎない大番頭が、3000石級の旗本の任である江戸町奉行や、大目付より格上なポストであるのは、幕府はいわば軍事政権であるため、軍事・警備の責任者の地位が高かったのである。
    大番の警護する要地は二条城および大坂城があり、それぞれに2組が1年交代で在番する。
    寛永2年(1625年):二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。
    元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。
    文久2年(1862年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。  (wikipedia・番頭#江戸幕府の番頭、二条城より)]

    江戸時代後期の京都の町屋における二条番衆の寄宿形態 – 丸山俊明

    元離宮二条城 – Google Map 画像リンク」「二条城 東南隅櫓 – Google Map 画像リンク」「桃山門 – Google Map 画像リンク」「鳴子門 – Google Map 画像リンク

    国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号2/5・絵図四つ切右下に御城と描かれています。)

    カメラ西方向が、二条城東大手門です。

    カメラ位置は二条城東大手門内です。

    カメラ位置は二の丸御殿東通路門前で、カメラ北方向突当りにと、カメラ方向右が土蔵になります。

    二条城梅園のストリートビューです。

    二条城桜園のストリートビューです。

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