マーカーは八木家です。
八木家
[新撰組の歴史と八木家の関わり
幕末の文久3年(1863年)春、14代将軍徳川家茂上洛にあたりその警護の為に上洛した浪士達は、ここ洛西壬生村に宿所を求めましたが、間もなく江戸に呼び戻されることになりました。しかしその中で当八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田左之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京に残り、文久3年3月16日八木家右門柱に、松平肥後守御領新選組宿という新しい表札を掲げ、ここに新選組が誕生したのです。
当時、当家は11代八木源之烝應迅と申しました。その後しだいに隊士も増え当家では賄いきれず前川家や南部家にも宿所を当てていました。当家奥座敷は新選組三大内部抗争の一つ芹澤鴨暗殺の場で、文久3年9月18日どしゃ降りの深夜芹澤鴨、平山五郎ら4人が斬殺されました。現存する刀傷の一部がその凄惨さを物語っています。こうして近藤が実権をにぎってから隊規も厳しくなり、又池田屋事件など新選組の最盛期を築きましたが、慶應元年(1865年)夏、壬生が手狭になってきたのを理由に西本願寺の太鼓番屋に屯所を移しました。その後、鳥羽・伏見の戦いで敗れるまで壬生を洋式調練の場所にするなどして江戸に下る最後まで深い繋がりがありました。壬生に生まれ幕末京都の治安を守った新選組。あしかけ3年の新選組壬生屯所時代。これが真の新選組のすがたではないでしょうか。 (「八木家」ホームページより)]
新選組遺蹟
[文久3(1863)年,江戸幕府は浪人懐柔統制のため浪士組を組織した。浪士組は上洛して壬生村で郷士前川・八木邸等に分宿した。指導者の清河八郎(1830~63)は尊王攘夷運動に浪士組を使おうとし,その策謀を知った幕府は東帰させた。残留した芹沢鴨(?~1863)・近藤勇(1834~68)らが新選組を結成し,前川・八木邸を屯所として尊王攘夷派や倒幕派の弾圧を行った。この石標はその屯所であった八木邸を示すものである。
所在地 中京区壬生梛ノ宮町
位置座標 北緯35度00分07.9秒/東経135度44分39.5秒(世界測地系)
建立年 1931年
建立者 京都市教育会
寸 法 高117×幅18×奥行18cm
碑 文
[東]
新選組遺蹟
[南]
昭和六年七月
[北]
京都市教育会
調 査 2002年2月4日 (「NA070 新選組遺蹟 – 京都市」より)]
カメラ西方向に新撰組屯所がおかれた八木家があり、カメラ北西方向に新選組遺蹟碑があります。