マーカーは弘前藩津軽家京都屋敷跡です。
[弘前藩の京都屋敷は、釜座通姉小路上ル津軽町西北角に位置する。津軽町の由来は古く、すでに寛永14年(1665)の洛中絵図に見られるが、もとは神明横大路町といい、津軽家に拝領になり町名を改めた。敷地は、表口22間3尺7寸5歩、北隣は井筒屋伝兵衛、裏行14間6尺、西境姉小路通溝限りで、「津軽町表通り三軒役、北神明町通二軒役」を負担している。同屋敷は宝永5年に「御類焼」しているが、被災の規模は不明である。
同屋敷では、初代藩主津軽為信が、孟蘭盆会に都郡の人に見物させる目的で2間4万の燈篭を出したところ、「津軽の大燈篭」と有名になったが、享保年中に「賛なり」の理由で中止された、為信の没年が1607年であるから、100年以上続いたことになる。明和4年 (1767)には、洛中洛外屋敷活券状改めがあり、拝領屋敷か、買得の屋敷かで町内と争論がおきている。津軽屋敷が町役を負担してきたことがその原因で、拝領屋敷ならば町役の負担は無いはずというのが町内側の主張であった。火事で記録などを失い反論に苦労しているが、津軽側は買得の屋敷ならば、町人の名前で買うことになるから、津軽町と唱えることはできないだろうと一貫して主醸している。結局、拝領屋敷ということで決着したが、町役はこれまで通りとなっている。敦賀屋敷でも町役の負担はあったが、いかに大名の屋敷といえども、町内との関係を抜きには生活できないことが窺える興味深い事件である。
当屋敷は、拝領地であったことから明治になって上邸されるが、「室町御邸ハ京都宿便りこ而相済候」との記事から、当時津軽藩京都屋敷は、津軽町と室町の2ヶ所にあり、「室町御邸」は上邸されなかったことが分かる。 (「弘前藩の蔵屋敷について – CORE」より)]
「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ – 中井家絵図・書類」 – 「寛永後萬治前洛中絵図(1642年)」(絵図中央・二条御城左下、姉小路/釜座通右上に津軽土佐守(津軽信義)と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央・二条御城右下方向に津軽と描かれています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図中央・二条御城右下方向、姉小路/釜座通交点左上にツガルヤシキが描かれています。)
カメラ位置は姉小路/釜座通交差点で、カメラ北西方向が津軽町で弘前藩津軽家京都屋敷跡になると思われます。